鳴く①

「で?今日は下書きすらしてないみたいだったけれど、ほんとに大丈夫なの?」


 メイの身体の汚れは増しているような気がした。口に出す気はないが、何かあるんじゃないかとさすがに心配だ。


「……取り敢えず危機感はないってことだけ言っておくよ」

「はぁ……」


 メイは本気で呆れているようだった。危機感がないのは本当だ。気にせず、私は話題を変えた。


「ところでさ、メイは美都ちゃんどう思う?」

「あら、陰口?」

「そう認識するなら構わないよ。メイの意見が聞きたいだけ」

「ふぅん。まぁ。そうね……。悪い子では無さそうだけれど、あなたが好きなタイプではなさそうね」

「さすが。その通り、美都ちゃんは一緒に居たいタイプじゃない。少し仲良くなると依存されやすいから。適度な距離を保てば面白い人だけど」


 メイは鼻を鳴らした。どういう原理なのかは不明だ。


「奏の時は沼ってくれれば良いのに、とか言ってたけど、その矛盾点はどう説明するの?」

「矛盾も何も、タイプの好き嫌いだよ。単純にメンタルが弱ってる子と、メンヘラに依存されるの、どっちがいいかなんて一目瞭然だろ?依存も束縛も、主語が変わると全く違ったものになるんだよ」

「意外だわ。好きでも嫌いでも取り敢えず優しくするのかと思ってた」

「私は基本女の子には優しくするさ。けど例外だってもちろんある。人間だからね。好き嫌いくらいあるよ。それに、他人に掌握されるよりも、他人を手中に収める方が合理的だしね」

「――そう。……アタシが答えたんだから、あなたもアタシの質問に答えるのよ?正直に、ね。あなたみたいなクズを、あなたの担任はどうして信頼しているのかしら」

「それね。うちの担任国語教師じゃん」

「それが何?」

「私の成績、知ってるよね」


 今にも舌打ちされそうな様子で睨まれる。


「……あなたが国語だけ異様に成績がいい理由と関係あるって言うの?」

「ないわけじゃないね。国語だけいいんじゃなくて、国語しかできないってだけだけどさ。私褒められるの好きでしょ?」

「もういいわ、何も言うんじゃない。よく分かったわよ。アンタが懐いてくれるから、あの女教師はアンタにゲロ甘なのね」

「懐くなんてキモい言い方はやめてよ。私は高圧的な大人が嫌いなだけだから」

「アンタみたいな生意気な小娘にはむしろ高圧的な大人が必要よ」


 少し口が悪い。そろそろ本気で怒らせそうだ。


「でもそういう高圧的な大人こそ幼稚で古臭い考えで威張ってくるじゃん。時代が変わってることを理解できないから、いつまでも止まった頭で生きてる。それをつつけば逆上。こういう大人って、大抵子供の時やんちゃしててそれを武勇伝にしがちだよね。決まり文句は「そういう時代だった」。酒が入ったオジサマが免罪符みたいにバカスカ乱用する魔法の言葉。たったその一言で過去のやらかしが許されるとでも思ってるみたいだ。大っ嫌い」

「それは同感ね。学校という狭い世界で言うなら、校長よりも年上、定年前の老人、と言ったとこかしら」

「老人系熱血体育教師も追加で」

「分かるけど、私怨が強めね」


「――そりゃあ。子供を従えるために圧を使うなんて野蛮だ」

「あなたはそういう教師にも突っかかるタイプだと思っていたけれど」

「私は教師と生徒、大人と子供じゃなくて、人間と人間で話し合いたいんだよ。あいつらは話が通じない。まるで新種の猿だ」

「――ッほんっと……生意気」

「自覚はあるよ。拗らせてるって自覚もね。私はそれを全部含めて自分が大好きなんだ」



 ■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■



 制作期間の美術室は静かだ――とは限らない。バカでかいキャンバスに隠れるように、制作に飽きた十代の芸術家達は内職に勤しむ。真面目にキャンバスと向き合うのは隣の部長と後輩の真面目枠。その他諸々は居眠りかサブスクアプリで漫画か映画。後は椅子の上にアイドルが約一名。


 この制作期間、クラスメイトの祐希は気分がノらないと狂ったように歌いだす。彼の椅子一マス分のステージはうちの美術部の名物だ。椅子下に綺麗に揃えられたローファーがシュールである。私は祐希からそっと目を逸らし目の前のキャンバスに意識を向けた。それはまだ、真っ白だった。そろそろ顧問の視線が痛い。


 小言が近付きかけたのを察知し、私は綺麗なパレットに適当な絵の具を押し出した。イメージが浮かばない。いつも私が顧問に言って逃げてきた最高の言い訳。言い訳と言っても本当のことだ。絵の具を出してみても、その色が芸術を生み出す未来は見えなかった。今になってその理由がはっきりとした。イメージが浮かばないのではなかった。私に、美術部部員である自覚がなくなったのだ。私はきっともう、絵が描けない。


 いや、違う。


 もう、ではない。元から、私に絵の才能はなかった。私は先が摩耗した筆をキャンバスに滑らせる。志を持って入部して、嬉々として自費で購入した立派な木箱の油絵セットも、きっと私が持ち主で後悔し始めた頃だろう。


「ど、どうした海瑠」


 頭上から声がかかって気がついた。キャンバスは白いままだったのだ。


「どうしたんだろね」


 クリーナーに筆先を突き刺すと、透明だったそれは白く濁る。脳裏に夢の鯨が浮かんだ。近頃毎日見る明晰夢。夢の内容はもはや現実の過去となりつつある。あの鯨は、メイは、私にやって欲しいことがあると言った。その詳細は教えてくれない。私がそれを知っている、とメイは言っていた。私は、何を知っているのか。私は、何がしたいのか。私は、何を忘れようとしているのか。分からない。分からなかった。私の現状を見て、あの鯨は笑うのだろうか。憐れむのだろうか。


 らしくない、と私は頭を振る。私はいつだってポジティブ思考だ。悩みなんて持つ暇もないほど自分を愛している。落ち込むなんて、思い詰めるなんて、こんなの私じゃない。どうして。モヤモヤが消えない。気分が悪い。そうしてぼぅっと虚無を見つめていると、活動終了の時間になっていた。私は居残る梨沙に手を振り帰路についた。白いままのキャンバスは見ないふりをした。


 その日、メイは現れなかった。これといった夢も見ず、私は重たい朝を迎えた。嫌な空白を抱えながら、私は日常を始める。父の車、田舎のバカ高い電車、変わらない音楽のプレイリスト、黒い制服の葬列。


「あ、海瑠さん。おっはよ」


 珍しい顔。特別の呼び名。増えた信頼の証。


「おはよ、美都ちゃん」


「海瑠、今日も早いですね」


 私の大好きな担任。良くも悪くも、どこまでも平等で、教師らしくない大人の女性。


「先生。おはよございます」


「海瑠ちゃん、おはよう!」

「おはよ奏ちゃん。ツインテ似合ってる」


 奏はいつもと変わらず可愛い。最近は私よりも気が合う友達もできて、新たなコミュニティを確立した。良かった、と、心からそう思っている。


「小野ぉーー」


 お決まりのアイツ。愛おしいまである。


「はいはいおはよー」


 何も、変わらない。この日常には、既に安心感がある。今日の一限は現代文。一番、好きな科目。教科書ノートを完璧に机に用意する。忘れ物なんて、したことが無い。室長の号令とともに授業が始まる。いつもと変わらない日常のはずだ。だから手元のプリントが濡れている理由が分からなかった。また。パタ、とプリントが濡れる。ぎょっとした。私は、泣いていた。

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