素直
この風景もだいぶ見慣れた。まっさらな虚空。目の前を泳ぐ汚い巨鯨。冷えて淀んだ空気を吸いながら、一人と一匹、生産性があるのかは分からない謎の討論を交わす。ただ私の、本当の思いとやらの答えはまだ出ない。メイに聞いても教えてくれるはずがない。知らず、私の口からため息が溢れ出た。
「何よ、ため息なんて。やめときなさい?幸せが逃げちゃうわ」
「この空間には元々幸せなんてないだろう?」
「どうだか」
今日はいつにも増して静かだ。普段ならお化けのような声で鳴いているメイも、黙って、重たそうに泳ぐだけ。心做しか、メイの身体の錆や汚れが前よりも酷くなっている気がした。よく見れば、何かの破片か部品か、そういったものの一部がくい込んでいる。
「……それ」
「――何?」
「メイの身体にある汚れだ。前から気になってた。それに前よりも酷い気がする」
私の素直な心配の言葉に、メイは
「何、あなたらしくないじゃない、アタシの心配なんて」
「
とうとうメイは高笑う。
「やけに素直ね、明日の雨は硝酸かしら」
「ほんと腹立つな。で?こんなに素直になってるのに教えてくれない?」
「うーん、そうね。教えるも何も、アタシにも分からないんだから、どうしようもないわ」
「メイも分からないの?」
「そう言ってるでしょう?理解力のない子ね」
私は黙りこくった。本人にも分からないとなると、いよいよヒントがない。頭を振り、昔の記憶を掘り返す。メイはここの管理人(人?)だ。私のことをなんでも知っていて、この虚空で一人(匹)寂しく泳ぐ鯨。汚い見た目に反して匂いはしない。彼女の声の抱擁力は母のようだ。
私は、ここが私の夢であることを自覚している。眠りにつくと現れる世界。俗に言う、
〈この虚空は、私の脳である。〉
ならば。思い立って私は目を閉じ強く念じてみた。メイは汚れた巨鯨ではなく、ごく普通の、現実の海に泳ぐような鯨だと。だが私はすぐしまったと思った。私は本物の鯨を見たことがない。テレビの仰天映像だとか、海の生き物特集だとか、私が知る鯨はどれも画面の奥にいた。これでは、正確なイメージができない。
ようやく気がついた。メイがメイであるのは、私が本物の鯨を知らないからなのだろう。私が本物の鯨を知っていたとして、それで完璧にイメージできたとして。それがメイであるとは言えない。ならこの虚空はどうだ。この虚空が私の脳ならば、この寂れた空間を復興できるのではないか。なぜここが寂れた雰囲気を醸し出しているのか。メイの存在を主張するには、この虚空は無限すぎる。手を伸ばせば壁に触れそうな閉塞感に対し、実際はその間に無限の虚無がある。
私は幼い頃両親に連れていかれた水族館の、海のような水槽で泳ぐジンベイザメをイメージした。あのジンベイザメも、厚い壁の奥にも海が広がっていると信じている。無限の密室に囚われ、かつての回遊を夢見ている。
目を開いた。目の前には変わらぬ風景があった。真っ白の虚空に、寂しく泳ぐメイ。だが、ふと手に硬い感触があった。見ると、手のひらサイズのジンベイザメのマスコットが握られていた。精巧に作られていたであろうそれは、年季が入り所々色褪せて、先が少し欠けている。
あぁ、思い出した。これはあの日、お土産コーナーで購入したものだ。幼い私が気に入って、離さなかったのを両親が買ってくれたもの。私は途端に虚しくなった。この虚空の寂しさは濃くなった。真冬の朝の濃霧のような、毛穴に突き刺さるような冷たさの。
「それ、何?随分古いわね」
「昔買ってもらった置物だよ。今は棚の一番上で埃をかぶってる」
「ふぅん、どうしてそんなものがここにある訳?」
「……イメージしたんだ。メイがここでジンベイザメと泳いでいるのを。本物の鯨は見たことがなかったから」
メイがむくれた。
「アタシが本物じゃないって言うの?」
「メイは特別だろ。水もない虚空を泳ぐ鯨なんて聞いたことねぇし」
「小説の世界みたいね。『虚空の鯨』ほら、なんだかそれっぽいじゃない?」
「ハッ、センスはイマイチなんだね、メイ。ありきたりだ」
「なんですって?なら、あなたの抜群なセンスの賜物を聞かせなさいよ」
「抜群もなにも、シンプルでいいんだよ、こーゆうのは。『
「短縮しただけじゃない。あとそのドヤ顔がムカつくわ。却下よ」
「あっそ、ならこの虚空はまだ無題にしておくよ」
■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■
蒸し暑い廊下で、担任が私をよびとめる。理乃と奏を先に行かせ、私は愛想良く彼女の元へ駆け寄る。
「なんですか?」
彼女は小さく手招く。私はさらに距離を縮めた。
「奏のことなんだけど、本当にありがとう」
凄いよ、と彼女は小さく手を叩きながら言った。話す時に手を小さく叩くのは彼女の癖だ。
「奏から聞きましたよ。海瑠が助けてくれたと。本当に、立派です」
「そんなことないですよ。私も友達になりたかったんです」
とは言えど、褒められるのは好きだ。デレデレと私の情けない顔は、彼女の目にどう映るのか。それで、と彼女は真剣な顔に戻った。
「今、部活は大変?」
「うーん、まあまあです」
何もしてないですとは言えなかった。
「そう。あのね、海瑠が良ければ頼みたいのだけど……
美都。
「分かりました。気にかけておきますよ」
「助かります」
彼女は私に頭を下げ、他の教師に呼ばれ忙しそうに駆けて行った。美都は精神がやや脆弱だがそれにしては気が強めだ。教師に対しては生意気で、校則はフル無視。その反面男関係で病みがちな地雷系。学年に一人はいるタイプの量産型だ。教師陣が手を焼いているのは知っている。正直あまり得意なタイプではないが、あっちから嫌われたら引けばいい。
私が担任の頼みを受けいれたのは、彼女への忠誠心だけではない。ただ、ただ単純に私と美都は席が隣同士なのだ。席替え以降不登校だったためまともに話したことはないが、話に行く手間が省けるなら少しは楽だ。翌日珍しく登校した彼女に私はにこやかに「おはよ、美都ちゃん」と声をかけた。彼女の頭髪も耳も校則違反に染まっている。
「おはよう海瑠さん」
思いのほか明るめに挨拶が返ってきて少し拍子抜けした。よくて無視させると思ったのに。今日は気分が良さげらしい。
「久々の学校はどうです」
「最ってぇだよ」
「おっと」
最低だったらしい。笑っているし、どっちでもいいか。
「良い色だね、元気な茶髪だ」
自分の髪を指しながら、美都の明るく染った触り心地の悪そうな髪を褒めてみる。
「ありがと。犬みたいっしょ?」
「うん。もふッてやりたいね」
私と美都の間が湿気を含んで和む。案外仲良くなりそうだ。私は思い出したようにくしゃくしゃになったプリントの束を取り出して美都に渡した。
「これ、休んでた時のやつ。美都ちゃんのは机に入ってんじゃね?写していーよ」
「まじ、助かるぅ」
私の板書は読めたもんじゃないが、何も施しを与えないよりは親切だろう。「なんて書いてあんの?」もポジティブに考えれば会話のもとになる。幸い何もツッコまれることはなく、その後も無事に授業は始まり、無事に終わった。
「ずっと気になってたんだけどさ、海瑠さんなんでけろって言われてんの?」
「あだ名だよ。ほら、名前海瑠じゃん?蛙っぽいでしょ。小中そう呼ばれてたから開き直って自分で広めた」
「最高だね」
「ああ、最高でしょ。美都ちゃんもけろって呼んでいーよ」
「あたしは海瑠さんのままにしとくよ。トクベツじゃんね?」
「お、言うねぇ」
予想以上に気に入られてるのか。それか、彼女お得意の口説き文句か。どっちでもいい。目は胸に縫い付けられている。机に乗っかる程の大きさ。漫画の世界の存在感である。細かいことを考える隙はないのだ。
「小ー野ぉー!」
情けない声で呼ばれる。見なくても声の主は分かった。
「んだよ浅間。くねくねしやがって」
「さっきブロリーと会ってさぁ、早めに制作始めないとしばくってぇ」
「あいつあんなに筋肉ダルマではなかろうよ。まぁそうだなぁ……そろそろやっとくか」
「イメージ決まってんの?」
「どうだろうね」
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