信頼

 何も無い。


 白く塗られたような、どこまでも続く虚空の真ん中で、私は立っていた。頭はぼんやりと重く、視界は霞む。辺りを見渡した刹那、私の頭を、地が響くような、風が鳴るような雄叫びが揺さぶった。


「は、なに?」


 肩を震わせ、音の方を向く。そこには、黒い影のような何かが悠々といた。音の主と思われるそれと目が合う。それは巨大な鯨だった。藻なのか錆なのか、よく分からないゴミで汚れた巨鯨きょげい


「やっと気づいてくれたのね。待ちくたびれたわ」


 その汚い巨鯨は、謎のおネエ口調で、さも当然のように私に話しかけてくる。私は理解が追いつかずバカみたいな顔で立ち尽くす。


「なによ、そのマヌケ面は。──あぁ、なるほどね。アタシはメイ。ここの管理人」


 メイと名乗った人語を話す鯨は、私の周りをぐるりと一周して顔を覗き込んできた。


「管理人……?なんだよそれ、あんた鯨でしょ?……そもそもここはどこ?」


 私の問いにメイは笑っているような表情を作った。不気味に歪んだそれを見て私は少し怖気付く。


「それは言えないわ。今はね。その時が来たら、あなたにも分かるわよ」


 そんなことより、とメイは手を鳴らすような仕草でヒレをペち、と鳴らした。どうやら私に話をさせる気は無いらしい。


「時間がないわ。あなたにはやってもらわなきゃ行けないことがあるの」

「私に?」

「そう、あなたにしか出来ないこと。どうか力を貸してちょうだい」


 どこか期待を孕んだ真剣な声音でそう言うメイを、私は冷めた目で見返す。閉鎖的な虚空に、嫌な沈黙が訪れた。


 一つ、ため息。


「あのさ、あんたが私の何を知ってて何に期待してるのか知らないけど、私はあんたの期待に応えられるような人間じゃないよ」


 私の冷たい声音に、メイは黙って私を見つめる。何やら悲しそうな目をして。一年前のあの悪夢が脳にフラッシュバックし、私は無意識に顔をしかめる。私が口を開こうとすると、メイの「ほらね、」と言う呟きがそれを制した。


「は?」


 私の問い返しに、メイは怒ったような、呆れたような口調で淡々と話し始める。


「あなたはいつもそうよね。目の前の問題から目を逸らして、真っ当そうな理由をつけて逃げて。アタシがあなたの何を知ってるか?全部知ってるわよ。名前も、身長も体重も、その控えめな胸のサイズも、恋人が今まで一人もいないことも、いつも自分を偽って生きてることもね」


〝自分を偽る〟。そのメイの言葉に、私は動揺した。私が?そんなわけない。私はいつだって自分の心が思うまま生きてきたんだ。他人のことなんて、何も気にせず生きてきたんだ。


 でも、私はメイの言葉に動揺してしまった。私の心が、その言葉を認めたというのだ。背中を、冷たい嫌な汗が伝う。何も言い返せない自分に吐き気がして、私は強く唇を噛み締め粘つく唾を飲み込んだ。私の様子を見て、メイはどこにあるか分からない鼻を鳴らす。


「その感じ、図星なんでしょう?まぁ、そりゃあ認めたくないわよね。あなたみたいな若人特有のプライドの塊が、本当は自分は逃げてばかりの情けない惨めな人間だなんて」


 嘲笑うかのようなメイの口調に、頭を殴られたような衝撃が走り、真っ白になった。


「――ッ、うるさい!あんたなんかに私の事が分かってたまるか!あんたには関係ないんだよ!」


 気付けば枷が外れ、私はメイに向かってそう怒鳴っていた。メイは、その海の如く深い目で私を憐れむように見ていた。メイの大きな影が私を覆い、恐怖すら感じるその光景に混乱し顔を歪める。


「あら、そうやって感情的になれるのね。あなたはそういうのが嫌いなのだと思っていたけれど。あなたの本当の思いにも、そうやって真っ直ぐ答えられればよかったのに」

「………本当の……思い……?何よ、それ」

「それはあなたが一番分かってるはずよ。ただ逃げてるだけでね。このまま逃げ続けて、本当に全て忘れてしまったら、あなたは自分自身も失うことになる」

「………………」


 話が見えてこない。私は何を忘れているのか、何が分からないのか、それすらも分かれなかった。


「それでもいいなら、あなたの好きにすればいいわ。あなたの人生だもの。アタシみたいな鯨が、口を出していいものじゃないわ。嫌ってんなら何か行動を起こすべきなんじゃないかしら」

「…………私に……どうしろって……」


 声が震えていた。私の感じた恐怖に共鳴するように、虚空の世界も揺れていた。どうして震えているのか、自分でも分からなかった。ただ、メイの言う通り自分がどうにかなってしまう気がした。


「だから、それをあなたは知ってる。あなたが自力で見つけることに意味があるの。アタシは管理人。あなたのすべてを知っているけど、あなたを見守ることしか出来ない」


 そこまで言うと、メイは優しい目をして私に歩み(正確には泳ぎ)寄ってきた。哲学的な謎かけのような話についていけない私を聖母のようなあたたかさで包む。


「でも、私はあなたなら大丈夫って思ってる。あなたは強い子だもの」


 はっきりしない、それでいてどこか芯があり安心すら感じる言葉に、私の意識は微睡んだ。


 遠くに聞こえた電子音に、夢の世界が揺らぐ。ぼやぼやした薄暗さの中、うるさく鳴るスマホを求めた私の手が空を切った。夢を犯していた振動が止み、代わりに日常が流れ込む。


「……朝」


 スマホの液晶を見ると、六時十五分を示していた。二回目のアラームのちょうど五分後。一回目は六時ちょうど。二回のアラームで徐々に身体を起こした後、体感五分の三度寝をかます。一度では起きれない夜型の私に組み込まれたルーティーンだ。


 はっきり意識が覚醒すると、妙に喉が渇いている。私は乱れた寝間着を正すことも無く洗面台に向かい顔を洗った。勢いよく吐き出された田舎の水は冷たく、嚥下する度に寝起きの乾いた喉は水を欲した。目の前の鏡を見れば、青白く酷い顔をした自分がそこにぼうっと立っている。いつもと変わらない朝だった。


 私はプログラミングされたロボットのように同じ習慣を繰り返し、学校へ向かった。父の車で駅まで向かい、田舎特有のバカ高い運賃を定期券で通過する。まだ朝は早い。電車はいつものようにガラリと空いていて、私はいつも座る席に荷物を下ろして座る。


 代わり映えしない田舎の風景を駆け抜け、電車は学校の最寄り駅に滑り込んだ。同じ学校の生徒が一斉に電車から吐き出され、喪服のような黒い制服が列をなして進み始める様はまるで葬列のようだった。


 私は葬列の最後尾をゾンビのようなスピードでノロノロ歩く。学校はやはり憂鬱だ。学校に縛られる時間は減らせるものなら減らしたい。止まったプレイリストを再生し直し、ランドセルをガタガタと鳴らしながら元気に私を追い越していく男児を眺めると、ハーフパンツから露出したその細くも肉付きのいい健康そうな脚に噛みつきたい衝動に襲われた。


 昇降口の前、録音音声のような教師の挨拶に愛想良く応え、処刑台に上がる死刑囚の如く教室までの階段を上る。


「けろー!」


 後ろからデカめの声がかかり、振り向くより早く身体に強めの衝撃があった。嗅ぎなれた人の家の柔軟剤が鼻を掠める。


「おはよ!」

「うん、今日早いのな」


 熱烈な朝のおはようにそう適当に返すと、声の主は隣に並んだ。四組の浦田梨沙うらたりさ。同じ美術部員で部長だ。


「そ、たっちに課題貰いたくて早く来たんだぁ」

「ほーん、勉強熱心なのはいいこった」


 嬉しそうに例の数学課題を見せてくる梨沙にそう苦笑した。かなりの数学好きの梨沙は度々たっち(梨沙の担任で数学教師。目が細い)に課題を貰いに行っているのだ。私も部活帰り一緒に職員室まで連行されたことが多々ある。


 内容の薄い会話を最後に廊下で別れ、私は自分の教室に入った。中にはいつもの顔が揃っている。謎に定着した「ぽん〜」という原型を失った朝の挨拶を交わして席につき、母に持たされた朝食の包みを開いた。わかめのおにぎり。これもいつもと変わらない、偏食な私の朝ごはん。


 雑談をおかずにおにぎりをぱくついていると、学年主任が朝の見回りにやってくる。柔道部顧問の彼は「押忍!」という鳴き声と共に教室を徘徊した。おぢさん特有の香ばしい加齢臭が鼻につく。


「お、海瑠!今日もおにぎりか!」


 私の机の前で立ち止まって、覗き込みながらそう言ってくる。学校で朝食をとるルーティーンを確立してからというもの、学年主任の朝食チェックも新たにそこに加えられたのだ。しかも、加齢臭という特典付きで。私は適当にあしらって学年主任を追い出し、最後の一口を頬張った。



 ■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■



 昼休み。男子生徒の大半は購買へ走り、残った女子生徒は自由に机をくっつけ合って持参のお弁当を開ける。私は、バッグからコンビニのパンを取り出し封を開けた。最近お気に入りの惣菜パン。母に我儘を言って週一でコンビニの日を設けてもらったのだ。我儘、と言っても、母も私の代わり映えしないお弁当を作るのは楽しくないらしく、快く受け入れてくれたが。


 今日はいつも一緒に食べている数少ない女友達も部活の集まりでいない。私は久しぶりの一人を堪能しようと窓を開けた。入ってくる風は案外冷たくて心地よい。


「小野ぉー」


 突然、情けない声を上げながら一人の男が近寄ってくる。同じ部活のクラスメイトでマブダチの浅間祐希あさまゆうきだ。


「なんだ浅間。私のお食事タイムを邪魔するんじゃないよ」


 そんなふざけた調子でパンを齧りながら言う。彼は目の前の席にどっかり座ると、「聞いてよォ」と情けない声で続けた。


「カズに振られたぁ」

「うん」

「デートしよって言ったら断られたのぉ」

「そう」

「でも好きぃ」

「そうだねぇ」

「キョーミないでしょー」

「ないですねぇ」


 私は祐希の泣き言を軽くあしらう。彼のこれは日常茶飯事だ。カズというのは彼の幼なじみである隣のクラスの男子生徒で、本気かどうかは知らないが祐希がずっと好意を向けている相手。つまり、私は顔すら知りもしない男のことを永遠と聞かされているのだ。軽くあしらってもいいだろう。むしろ祐希に関しては雑にあしらうのが礼儀まである。


 私は目の前に居座る祐希に構わず大口でパンを噛みちぎる。祐希は私を見つめながら、小さな声で言った。


「……ねぇ小野ぉ、一生のお願いあるんだけどさぁ、聞いて?」

「うーん、ヤダ。お前の一生のお願いはもう聞いたし」

「そーじゃなくてぇ……マジな方なの、聞いて?」


 祐希を見ると、いつものマヌケな顔ではなく、しっかり思い詰めた顔をしていた。そうか。私は口内のパンを飲み込み、真剣な目で笑ってみせた。


「どうした?」

「――うん。あのね、」


 私の返事に、祐希は安心したように力なく笑う。


「……助けてやって欲しい子がいるんだ」

「助ける?」

「うん」

「……いいよ、誰?」


 私は詳細もロクに聞かずそう返事をした。“助けてやって欲しい人がいる。”祐希のその言葉に、一気に引き込まれたのだ。祐希は安心したような、それでいて、私ならそう言ってくれると信じていたような、そんな嬉しそうな顔で続ける。


そうなんだけど」


 奏。確か苗字は鈴鹿すずか。クラスメイトの名前だ。彼女もまた祐希の幼なじみ。


「奏ちゃん?どうしたの」

「奏、男バスのマネやってるでしょ?なんか、マネ同士で上手くいってないっぽくってさ。仕事丸投げされたり、陰口言われたりしてるみたい。ホントは俺が何とかしたいけど、男がそーゆー問題に絡むと面倒になるのは目に見えてるし……これでも一応男だからさ」

「……そうだな」


 私は腕を組んで黙り込む。奏は、クラス内でも高嶺の花と謳われるほど可愛くて、性格も良い子だ。多方、女の妬みが原因だろう。


「お願い海瑠。大事な幼なじみなんだ」


 祐希は潤んだ大きな目で私を見つめる。


「いいって。むしろありがとう。私も、奏ちゃんとは仲良くしてみたかったんだ」

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