第2話 待ち時間

「えっ…しりとり……、ですか?」


 雨宮さんは首を傾げ、困惑した顔をしている。この反応は予想していたので、私はそんなに驚かなかった。


しりとり、よ? バスが来るまで時間ちょっとやってみない?」



 私は鞄から大学ノートとシャープペンシルを取り出した。そして、ノートを背表紙から数ページ捲って開き、彼女の方へ向けた。

 雨宮さんはそのシャーペンをまじまじと眺めている。ノックするところに帽子を被って驚いた顔をしている猫さん、「ハッとキャット」が付いているのだ。


 明らかに対象年齢低めに設定されたキャラクターだが、私のお気に入りでシャーペン以外にもいくつかグッズを取り揃えている。

 しかし、残念ながら彼女からは「ハッとキャット」への感想はもらえず、視線をノートに向けていた。


「……もう、最後の方まで描いてありますが、これは誰かとやった続きですか?」


「そう! もう何人くらいかな……? 私とでいろんな人と暇つぶしを続けているの」



 私が中学生の時、クラスで絵しりとりがちょっとしたブームになった。授業中にこっそりノートを回してクラスみんなで遊んでいたのだ。このブームは夏休みだったか、どこかの長いお休みを挟んだタイミングで終わってしまった。だけど、私の中では終わらなかった。


 短時間で描く簡単な絵でなにかを表現するのがとても楽しかった。それから私はずっと絵しりとり専用のノートを持ち歩いている。


 出先のちょっとした待ち時間とかに友達とこのノートを使って遊んでいるのだ。今使っているノートは中学からずっと使い続けているもので、もうすぐ最後のページまで到達する。ノート1冊を絵しりとりで埋めるのが私のちょっとした夢なのだ。



 最初、雨宮さんは少し戸惑っていたけど、開いたページの絵を見て興味をもったようだ。


「これは……、『へび』、『ビール』……る、る……なんだろ?」


「相手に描いて渡すときは『なにか』口にしたらダメだからね? 絵だけで伝えていくのがおもしろいんだから」


「る、る…、あっ、わかった! だったら次は……」


 最後の絵がなにか閃いた時、彼女はとても嬉しそうな、明るい表情を見せた。そして差し出したシャーペンを片手に時折、頭を掻きながらノートに絵を描いていく。


 私がノートをじっと見ているのに気付いた彼女は、ノートを立ててこちらに見えないようにした。

 描いている「最中」は見られたくないものだ。その気持ちはわかるので、私は水溜りに無数に浮かぶ雨の波紋を見つめながら、彼女が描き終わるその時を待った。


 少しの静寂……。だけど、少し前より暖かい静寂だった。



「――できました。これでいいですか?」


 雨宮さんはほんの少し恥ずかしそうにしながらノートとペンを私に返してきた。


「ふふふ……、ありがとう。さてさーて、なにが描いてあるかな?」


 彼女が描いた絵を確認しようとした時、濡れたアスファルトを走る車の音が近付いてくるのがわかった。顔を上げるとバスがスピードをおとしてとこちらにやってくる。雨宮さんは小さな声で「来ましたね」とだけ言って立ち上がった。


 空気の抜けるような音が聞こえ、バスの扉が開いた。バス停の名を告げる機械的な声が半分はくぐもって、もう半分ははっきりと耳に届いた。



「あれ? 乗らないんですか?」


 バスに片足だけ乗せた彼女が私の方を振り返ってそう言った。


「うん、私はいいの。家、この近くだから」


 首を軽くひねって不思議そうな顔をする雨宮さん。彼女を乗せたバスは短いクラクションをプッと鳴らして走り去っていった。



◇◇◇



「きっとこれが『留守』で、私が描いたのは『スイーツ』だから……、つ、つ……」


 次の雨の日、私は再び家の前のバス停で雨宮さんと会った。彼女は先日、私のノートにお皿に盛られたケーキの絵を描いていた。

 線のすべてが丸みを帯びている可愛らしい絵だ。そして、シンプルだけど、「モノ」の特徴を捉えたとても上手な絵だとも思った。


 先日、彼女と別れてからこの絵を確認して、すぐに『スイーツ』だとわかった。その横に右矢印を描いて、私は「ツ」から始まる絵を描き加え、次に雨が降る日を待ち続けた。


 まだ梅雨明けしていないため、夕方に雨の降る日はすぐにやってきた。


 その日の雨は先日よりずっと大人しい降り方だった。粒の大きな雨が一定のリズムでバス停の屋根を叩いている。近くの林の奥から時々ヒグラシの鳴き声がこだましてきた。




「えっと…大高さん、待ってたんですか?」


 私の姿を見つけた雨宮さんは驚いた表情を見せた。たしかに一度出会って少し言葉を交わしただけの人が、バス停で待っていたらびっくりするのも無理はない。


「絵しりとり! 続きを描いたら1秒でも早く見せたくなっちゃって!」


 私はそう言ってノートとシャーペンを彼女に差し出した。一瞬戸惑った表情を見せた雨宮さんだが、軽く息を吐き出したかと思うと薄い笑みを浮かべた。


「本当に好きなんですね? ?」



 私たちはそれから雨の日の夕方だけ、バス停で絵しりとりをしながら15分程度、ちょっとしたおしゃべりをする不思議な関係になった。


「あっ! できれば下の名前で呼んでくれる? 『大高』はちょっとコンプレックスあるのよね?」


 この発言を聞いた彼女は、私を一度上から下まで眺めていた。きっと大きくも高くもない……、むしろ小さくて低いの方が相応しいと思ったことだろう。どうして私はこんなに小さいままなのか。


「わかりました。『瑞希みずきさん』でいいですか?」



 季節は7月に入ったけれど、まだ梅雨明けの宣言は出ていない。私は雨の日が待ち遠しくなり、今年に限って梅雨が長く続くことを期待していた。

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