第2話 誰でもないあなた

「臓器移植医療について、あなたの考えるところを述べなさい」――これが冬休み前に出された課題であった。実はこの設問は、年明けにはじまる後期試験の問題でもある。その一般教養特別講義を担当していた医学部の先生は、後期の最後の講義時において、わたしたち文学部の学生に対し便宜を図るつもりで、あらかじめテストの問題を教えることを恒例としていた。お蔭でわたしたち文学部の学生は、その先生のお計らいによって冬休みの間を利用して答案を作成する準備の時間を与えられるのだ。ただ今回のこの措置は、別の意味で、わたしにとってはとても好都合なものとなった。というのもわたしは、思いがけなくこの秋に移植手術を受けた当事者となれたからだ。

 臓器移植ネットワークにレシピアントとして登録され、ずっと順番待ちをさせられていたわたしは、この秋、急に条件のあったドナー患者が出現したことから、突如として自らの都合とは関係なしに訪れた天恵に遭遇した。わたしは喜んだ。

「これでやっと、普通の人と同じになれる…。」

 正直言ってその連絡を受けた時には、自身の置かれている立場、つまり学生で授業に出て講義を受けなければならないという意識はどこかへ飛んでしまっていた。そんな事はまるで、一切何も考えていなかった。それはつまり、今まで過ごしてきた日常とその延長上に考えられる生活とは全くかけ離れたところでわたしは喜んでいた、と言うべきであろう。

 講義の受講の中止を余儀なくされたわたしは、もちろんドナーの方の人となりなども聞かされることなく、提供していただいた臓器――わたしの場合は心臓なのだが、――を移植してもらえた。手術前に行われた念入りな検査が功を奏したのだと言えよう、術後の経過も順調で、拒絶反応も許容値を大きく下回った。そのお蔭で、年の瀬はおろか十二月の第一週目には外泊を許されるまでに回復した。しかし、一時的にではあれ、家に帰ったわたしは、途端に現実に引き戻された。後期試験の対策の必要である。

 わたしは、入院生活のためにろくに講義を受けていなかったから、いったいどのような「内容」のレポートを書けばよいのかと思案していた。そして、仕方がないのでわたしは、わたしに対して臓器を提供してくださった、今は亡きそのドナーの方宛に手紙を出すという形式で、わたしの今の心境を綴ってみてはどうかと考えた。それはある意味ずるいであろう。しかし別な見方をすれば、それは当の本人にしか書けない内容の文章だから、わたしなら書いても良いだろう、そのような文章を書く資格があるだろうという気がした。

 また別の理由でわたしは、それを我ながらいいアイデアだとも思った。というのも、手紙という形式だと、何となくわたしの今の正直な気持ちが事もなげにうまく表現できそうな気がしたからだ。


 ――臓器を提供してくださったあなたへ――


 この度は誠にありがとうございました。お蔭様で、術後の経過も順調で、只今はこうして筆を執るまでに至っております。

 手術日の決定の知らせを聞いたときは、正直申しましてとても嬉しく思いました。ですが、私は決してあなたの死を待っていたわけではありません。

 私の小さい時からずっと抱き続けてきた夢は、普通の人と同じように飛んだり跳ねたり、はしゃいだりする事でした。思いっきり熱中して、全力を出し切りたいのです。

 でもその願いが、私には叶いませんでした。私は決して特別な事を望んでいるわけではないのに、望んでもいない人がそのような普通の体を手に入れられているのは不公平だと思いました。私は神様を恨んでいました。

 ですが今回、幸運にも移植手術を受けられた私は、晴れて普通の人と同じように、努力をして自らの人生を切り開くという地平に立つことが出来ました。

 そして、この先運が良ければ、出来るならば私は医者になりたい。自分が病気がちだった、そういう人間こそが、病気で苦しんでいる人に対して親身になってあげられるんじゃないかと思ったりしたのです。

 私の望みはたったそれだけです。あとは私自身が強靭な意志の力でもって、努力を積み重ねて行きます。努力は生来の条件を土台にして、その上に築き上げられていくものです。だから私は、努力をしない健常者には絶対に負けたくないのです。

 この度は、さぞかしご無念のこととお察し申し上げます。あなたは不幸にもこの度、脳死を遂げられ、そしてあなたの生前の意思を尊重して、私があなたの臓器を頂ける運びとなりましたが、その一連の流れは、あたかも一掬いの砂の中から、たった一粒の鉱物を選び出す途方も無い作業と同じ位に、その困難さの度合いにおいて似ています。そして、そのような確率であなたと私が出会ったのだと思いますと、私はここにあなたとの深い縁を感ぜずにはおれません。

 そのうち、免疫抑制剤でだまされた私の白血球はあなたを攻撃しなくなるでしょう。そしてその事態が、何を意味するのかという点については、もうあなたにはお分り頂けているものと思われます。

 しかしながら、たとえ私の白血球があなたを攻撃目標として識別しなくなったとしても、私はあなたを決して忘れることはいたしません。私の中であなたがいなくなることはありません。あなたは、私の心の中でずっと生き続けていきます。どうぞ、ご心配なさらずに、心安らかにしていて下さい――。

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