生殺与奪之奇譚
脇坂 幸雄
第1話 メメント・モリ
何でも疑い深い性分の私は、以前から「この薬は何ですか?」とか根ほり葉ほり聞くようにはしていたのだが、今回は「ドナーカード」について質問をしてみた。診察以外に余計な仕事を持ってくる奴だなあという素振りなど一つも見せずに、私のかかりつけの医者はこう答えてくれた。
「これはドナーカードと申しまして、あなたが脳死で死んだ時には脳は死んでもまだあなたの中にある他の臓器が死んでいないので、まあ、心臓を初めとして、その臓器をどうしても移植手術を受けないと治らない患者さんに提供していただけるかどうか、その意思があなたにおありかどうかを表示していただくカードなんですね。そしてこれにはあなたの署名だけでなく、あなたの意思であることを承認してくださる第三者の方の署名が必要になります。」
「ところで『脳死』って何ですか? 植物人間とはどう違うんですか?」
自分が死ぬことなんて、いちいち考えたことのない私は、主治医との対話に本気で参加しているわけではなかった。別にこれといって際立った症状も無く、けれどもどちらかと言えば決して健康だとは言えない私は、問題を常に先送りすることで日々をやり過ごしている。にもかかわらず、かかりつけの医者と話している時は、ついつい思ったことを事細かに聞いてしまう。長い時間待ち合いのベンチに座らされていた分、その鬱憤でも晴らすつもりで質問をしてしまうのか、その理由を私は自分でもはっきりと分かっているという訳ではない。
しかし私のかかりつけの医者は、いつも通りの丁寧な口調で、管理患者である私の質問に答えてくれた。
「はい。植物人間というのは、その当の本人の方にはちょっと気に障る言い方になるかも知れませんが、まだ充分に生きてます。で、脳死というのは脳幹の死を言います。でもまだ手を握ると暖かいんです。見た目にはとても死んでいるようには見えません。看病しておられる身内の方からすれば、まだ生き返るんじゃないかって思えてしまうような姿です。でも、脳幹が死ぬと人体の細胞の新陳代謝が止まりますから、もうその体は腐食が進んでいくばかりとなります。残念ながら、脳幹を生き返らせることは今の医学では出来ません。ましてや脳幹にはメスを入れるなんてことは絶対に出来ません。ですから、救命措置を施すとかいうのとは全然違います。」
「でもその『脳死』っていう誰かに見極められて死ぬ死に方って、理屈の上ではわかってても、実際に心情的にはねえ……」
そう言いながら、医者の言うように任せて納得させられるのも少し癪に障るなと思っていた私は、何でもいいから反抗の糸口となる言葉を探していた。私は医者の言葉のあげ足を取るような言い方で、少し意地悪な確認をしてみた。
「ってことは、救命とか延命措置というのは心肺機能面に施すけれど、それっていうのは偏に、脳幹を殺さないようにするというお話なんですね。」
「まあ、そういうことになりますかね。」
私の主治医は首を傾げながら、こう答えた。私は尚も続けた。
「じゃ、それこそ脳幹の機能を破壊すれば、脳死患者なんていくらでも作り出すこと出来ますよね。」
「まあねえ、理屈の上ではね。」
「でも、それって殺人でしょ。」
「人が死んでるから人殺しには違いないでしょう。」
「でも、それで人が死ぬことで、その一方で喜ぶ人がいるわけでしょ。何かいい気持ちしないなあ。」
しかし私の主治医はそこで何やら「へっへっ」と笑うと、物騒な方向に話を展開した。
「でも、そもそも殺人事件が起きる構図なんて物は、まず、生きていて欲しくない人がいて、それにその人を殺したいと思う人がいるということだから、殺人をした犯人は必ず、人が死んで喜ぶ人になるんじゃないですか。」
その時、主治医が私の仕掛けた罠にはまった。
「そう、そこなんですよ。だから、殺人の罪、罪と罰じゃないけれど、そんな話はロシア文学に任せといて、私が言いたいのは、世の中に誰かの死を待っている人がいるという事実が問題だということなんですよ。それこそ、死すべき運命の存在である人間が死を受け入れるというのと、死を待つというのは全然違うと思うんですね。後者の方には、死を歓迎すべき物としての願いが込められてくる。…人が誰かの死を待つというのは決して精神衛生上、健全なことではないはずだと思うんですけど。」
私は自分の思いの丈を十分うまく言えたような気がして、少し得意な気持ちになれた。
しかし、ドナーカードで臓器提供の意思表示をした瞬間に、少なくとも世の中に私の死を待つ人が存在してしまうことになる。
人は生まれた限りは必ず死を迎えることになる。しかしその避けようも無く訪れる死を待っている人は誰一人いないはずだ。ドナーカードは、その状況を突き崩した!
「でも、あなたが死んでも、あなたの臓器が他の人の体の中で生き続けるっていうのは、なんだか素晴らしいことのような気がしませんか。」
私は医者の言うような、患者さん自身の心の中に一体化し、心の中で生き続けるというのは詭弁だと思った。しかし私は次のような返答をした。ただそれは、一方で私が今置かれている家族の中での状況に押された形でそう言ったまでに過ぎない。
「確かにね。その点では、家族の者は誰も反対しませんよね、きっと。ひょっとすると子どもたちが『父ちゃん、カッコいい!』って言ってくれるかも知れません。」
医者との話し合いの末、別に都合悪い所はないなぐらいに高をくくった私は、同時に家族の中で失ってしまった父親の威信をも回復するべく、公に臓器提供の意思表示をすることに決めた。
しかし日本のどこかで私の死を待っている人がいるからであろうか、ドナー登録をしてから程なくして、私は幸運(?)にも脳死を迎えた。それは過労から来る、クモ膜下出血が原因であった。
臨床的に脳死と判定されてから、医者は残された家族の元に死亡確認と臓器提供の承諾を行い、その点に関する念書を書かせた。その上で「私」の臓器摘出に取り掛かった。「私」は切り刻まれた。心臓、肝臓、腎臓、それと眼球の角膜がそれぞれ、日本各地にいる移植を待つ患者さんの所へと届けられていった。
その一方で、「私」の葬儀はしめやかに、粛々と執り行われた。身内や参列者の方々と最後のお別れをする時の、棺桶の中に遺体として入れられた「私」の顔には目がなかった。
既に、移植手術が行われて三週間が過ぎた。患者に発生していた拒絶反応もようやくその峠を越え、今は症状も落ち着いている。
ところで、移植された患者の体内にいる「私」は患者さん自身からすれば非自己な訳であり、当然正常に免疫機能が働いて拒絶反応が起きるのはやむを得ない。しかし、その正常な免疫反応を免疫抑制剤で押さえ込むことを繰り返し、移植された臓器が患者さん自身の物となりつつある今、患者さんの中に生きる「私」はもはや患者さんにとって非自己ではなくなってきているのだ。しかしこれは、決して他者である「私」を受け入れたということを意味しない。逆にその臓器の中には「私」が存在しなくなっているのだ。「私」は何となく話が違うというような気がしてきた。
結果「私」は二度、殺された…。
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