第27話 死についての思索(27)---死に在っている、と、生き在っている

今日も私は正直に語らねばならぬ。

「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」

 ということは、私にとって一番重要な問題である。

 私は、それを昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。

 いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。

(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)

本日の加筆箇所は「死についての思索(54)」に書かれたものである。


『自殺者の血は賜物である』


⇨私はもうかれこれ10年以上前になるが、ある事件をきっかけにして、自殺、というものに興味を持つようになった。私はこれまで仕事の関係で人間の遺体を多く見てきたが、人間の裸の遺体というのは実に異様である。検死の現場などで多くの遺体が銀色の台の上にのせられている現場などに立ち会うと「人間の最後とはこういうものなのか?」といった唯物的な観念が押し寄せてくる「人間は単なる物質ではないか?」という考察は私を思索の意欲から引き摺り下ろす。だからこそ、私は積極的にそのような「物体」と成ろうとする自殺者というものに何かしらの死への期待を推察したのである。


『その、血は、永遠の血であり、歴史の血であり、すべてに通ずる全体の血であり、それはわれわれのひとりひとりに流れている。その、自覚的自死者だけが、れいがい的な、超個性の、個別的な歴史的血統であるが、これは結末の知れた、当初から献上の約束された、約束の肉体であり、生まれながらにして、その、運命の生贄であり、必ず因果に返上されなければならないものである。われわれは因果の代弁者として、今この時に顕現し、多様を統一して命の根源的源泉を復活させる媒介者と成る。今度こそ、あの、死んでしまった感覚を再構成しなければならないのだ。単なる推断では、もう許されない。われわれは今は実践者を欲している』


⇨自殺者へのリスペクトが窺える文章である。じつにじつに私は純粋に自殺者のその意志を信奉しているといえる。現実においての単なる死には微塵も意欲を感じない。人間の生命の保存は、それだけで権威的であるとさえいえる。長命の思想は、受け継ぎの高齢化をさえ意味している。高齢による継承には単なる歴史的なものの、非実践的な、ささやかな語り、しか実践されないのではないか。それは単なる長寿の饒舌であり、行為の高齢化である。私はそのような行為の高齢化は、歴史の高齢化であると思う。歴史が高齢化するとは、もちろん、歴史が皺だらけになるということである。皺だらけの相貌が、つねに、すでに、もう、死に在っている、ということはいうまでもない。それは若人の、生き在っている、とは明らかに対称をなす。

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