第26話 死についての思索(26)---「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)」

今日も私は正直に語らねばならぬ。


「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」


 ということは、私にとって一番重要な問題である。

 私は、それを昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。

 いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。

(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)


本日の加筆箇所は「死についての思索(53)」に書かれたものである。


『生命に執着しない者は、私は私であるという空虚な観念に支配されているといえるであろう』


⇨生命に執着しないものとは一体どんな人間だろう? それをおそらく私は無邪気な人間という意味で書き記したのだろうと思われる。無邪気な人間とは私にとって重要な捉え方である。その人間は最も源泉に近い義務と繋がった人間であり、その源泉とのみ交渉可能な行為者である。源泉の声を聴き分ける者である。ただし、その人間は平時では世間の声に浸っている。彼らはその無邪気性ゆえに声の種別を選り好みせぬ者たちである。彼らはその意志に最上の自由を有していて、つねに、すでに、もう、在っている、という様態で、その、世界、に浸透している。


『彼らは(生命に執着しない者)明らかに抽象的自己意識の奴隷である。彼らには敵対する他者は決して目の前に現れない。彼らは遠隔的に敵対者を攻撃し、殺戮する。彼らはその方法を群になって開発する。彼らはこの道具の発明において空虚から脱する。彼らの存在には道具の方法において無が忍び込む裂け目もない。彼らの存在は道具の発明のうちに内包されている。彼らは道具のための存在であり、道具の奴隷である』


⇨無邪気な者は、あらゆる通常の道徳性から逃れる者たちである。彼らは無邪気に道具を発明する者たちである。彼らの政治性は見せかけの姿であり、無邪気性の適当な開発の様態である。彼らの根源にある力動は道具の無邪気な発明である。彼らは発明によって、その、世界、にある意味を付与する者であり、笑んでいる。彼らの無邪気性は、つねに、すでに、もう、笑み在っている、として活動的である。



『道具の発明の支配者はコギトである。彼らは知らぬうちに群のコギトに協力する。彼らの考える事柄の全ては多数によって考えられ得るコギトであり、真に反省のないコギトである。このようなコギトがそれ自体を滅ぼすであろう。人間は人間自体によって殺戮されるであろう』


⇨ラテン語のcogitareは「念ふ」という意味であるが、この「念ふ」の深化によって、「念ふ」は膨れあがりの露呈を示す。「念ふ」の深化とは、言葉で表されざるを得ないが、その表現はさまざまな分野で支配的となり、特権的となってゆく。反省のないコギトとは挑発的なコギトという意味であり、戦闘的なコギトという意味であり、それは対峙の沸点を造る。その沸点の先にあるのは、戦争、つまり、発明されたものの互いの披露、である。発明されたものは、つねに、すでに、もう、在っている、という様態で、壇上的なものを志向している。それはお披露目を待ち望んでいる相貌で、殺戮の大量を、念っている。その、念っている、は、その、在っている、とほとんど近似する様態にまで迫る。その様態を、あの、デカルト、は、「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)」と云ったのである。

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