第25話 死についての思索(25)---われわれは、つねに、すでに、もう、死にたがっている
私は、正直に語らねばならぬ。
「私は、いつ、どこで、どうやって、誰と、死ぬのであるか?」
人々が普通に経験している経験は経験的知識ではなく、経験的知覚であろう。経験的知覚とはプロタゴラスの云ったように「わたしにとってはわたしにそう感じられるところのものであり、あなたにとってはあなたにそう感じられるところのものである」という概念である。
ソクラテスの言を借りれば「身体の具合がいい時は、葡萄酒が甘く感じられ、病気の時は酸っぱく感じられる」というのが経験的知覚であろう。
故に死の場合も同様に、死の知識と死の知覚は同一ではないであろう。ここから重大な結論が導き出される。ある人間がある別の人間よりも多く知るということは不可能だということである。あらゆる死というものは、かならず「その、死」として現前するのであるから「その、死」よりも多く知覚することなど不可能である。「その、死」は独自である。
私はこの帰結は極めて重大であると感ずる。死についての知識は人によって比べることができるが、死の知覚においては決して比べることはできぬのである。
故にどのような死に方もみな平等である。そこには比較する同一要素が存在のであり、つまりは個々の選り好みに過ぎないのである。死の選択とはその程度の話である。故に死というものは選択の動機よりもその実践が問われなければならぬ。その実践に憧憬が生まれるのである。なぜ死ぬのか、よりも、どうやって死ぬのかに、重きが置かれるのである。この無自覚の知覚があらゆる人間行動の根底にある。死の方法は、つねに、すでに、もう我々をその地盤から揺さぶっている。それは、つねに、すでに、もう、振動している。我々は、そのような振動の上に、つねに、すでに、もう、在っている、として存在しているのである。
「われわれは、なぜ死ぬのかに無関心である」
われわれは、つねに、すでに、もう、在っている、の、その、終末、へと向けて、つねに、すでに、もう、動き始めているのである。
もう一度言おう。
「われわれは、つねに、すでに、もう、死にたがっているのである」
私は、これを何度も反芻しなければならない。
私は、つねに、すでに、もう、終末の瞬間への準備として、在っている、のである。
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