第24話 死についての思索(24)---幽霊への挑みと幽霊への身売り
さて、引き続き正直に語ってみよう。
「私は、いつか、死ななければならない」
それは、もうずっと前に、知っている、ことである。
病気も事故も老衰も確率的現象であるから、もし確率的に死にたくなかったら自殺という行為のみである。自殺も自然死と比較すれば確率的となろうが、それはその個人にとってはそうではない。
あらゆる自殺者は死へと自らを至らしめる者である。あらゆる自殺は意図的であり、計画的であり、積極的な死である。それは静謐のうちに縊れて天翔ようとも、恰幅し首を切断されて天翔ようとも、それぞれが個々人の状況で選択した魅惑的な目的地である。それは彗星のような意志である。決して楕円軌道をしない運動の意志である。
その突如として現れた彗星の到来、そこには自己意識の対峙性が隠されている。しかし、だが一体、その自己意識は何に対して対峙しているというのだろうか?
二つの考え方があると思われる。一つ目は現実と対峙していると考えることである。
また二つ目は自己分裂の死、つまりもう一人の自分との対峙によって一方を殺害するという方法での死である。簡略すれば、自己意識の位置的なものを想定し、前者はその外部との対峙、後者はその内部との対峙と考えることである。
現実との対峙を想定すれば、それは現実的時間の中で発見的に解決、処理され、行為が選定されてゆくと考えられ、運命に向かって引き摺り出してゆくと考えられる。自殺は使命ではないが運命である。自殺は天命ではないが運命である。自殺は宿命ではないが運命である。運命とは、己をそこへの引き摺り込むという作用、そこへと己を運搬するという力動である。俗にいえば、そのような死は、幽霊との決闘による戦死であり、幽霊への挑みである。
また己の分裂者と対峙するものは内面性へと落下する者である。落下による思索によってのみ、あらゆる虚偽性から逃れて、疲弊に取り憑かれた孤独な散歩者のような態度が可能となり、将来への実りの希望は霞となり、心の廃墟へと真っ逆さま落ちてゆくことができるのである。これを単なる脆弱な心理と決めつけてはならない。それは運命ではなく、宿命であり、天命であるが、使命である。俗にいえば、このような落下は、幽霊に殺害されるものとして死であり、幽霊への身売りである。
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