第23話 死についての思索(23)---私の首は、おそらく天翔けるであろう
正直に語ってみよう。おそらく私は私自身とだけ密接に結びついた方法で私自身を死にいたらしめたいのである。自己の死の完成への願いがあるといえよう。
何かを至らしめるとはどういったことであるか?
それは自己自らの内感から創り上げられた創作物が外部で私に対立することを意味しているといえる。私の創造物は私の敵対物である。自己を外へひらき、そこで創作し、創作し終えると、その死骸を引き取って自己をとざすことによって、その創造物は完成させることができるのである。故に私の自己には、多くの死骸が在る。だが、それは決して、在っている、という仕方を再開することはない。それは創作される途中で、ほんの少しの間だけ、在っている、だけである。
完成のためには自己を閉ざさねばならぬ。その閉ざしによって、私は創造物の息の根を止め、それを静かに、かつて在っていた、ものとしてミイラとするのである。
自己を閉ざすとは、あの、自己とは関係のない、この、自己なるものとなることである。ただし死に導かれた創造物は、この、自己と関係のない対立物となる。それは、この、私の空間の亡骸として安置される。そのような対立的な安置は、最初は私を混乱に陥れるが、やがては混乱も覚めて、私は亡骸を静止物として大事に保存するようになる。
話を戻そう。
「私は私自身を、死へと至らしめる、という様態で導かなければならない」
でもどうやって?
私とその創造物の連続性はもう失われたのであるから、創造的に死へと導くことは難しそうである。ならば、あの、創造物の亡骸を元にして、死へと至らしめる、ことができるだろうかと考えると、亡骸はおそろしく静謐である。もしこのまま連続性の確保の念に執着すると、私は自らの、あの、創造物を自ら実践する気概になるであろう。私は私自らの現実的な肉体を使用して、あの、創造物、の様態へと自己を近似してみせるであろう。おそらくそのような死は腹が裂け、首が天翔けるような死である。あの、最も、不埒な自殺者の自殺のように。
偽装した死のモニュメントはこうして完成する。私は自らの死を、あの、創造物たらしめるように努力することによって、死へと接近する。そのようにして、現実の私は、私自身の死を、あの、人物と、類似したミッションへと駆り立てるであろう。おそらく、私は、その、腹、の裂けを利用して、私の首を天翔けさせるであろう。私は己を裂くことで、正式に何かの生みの親となるであろう。私は、たぶん、きっと、うんうん…、そうして死ぬに違いないのである…
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