第22話 死についての思索(22)---<その、死>に、在っている、ということ
死が確かに存在していて、確実にそこに、在っている、という様態で待っているのであれば、私はいつの日か完全にそこへ到達するのであろう。到達とは接合であろう。私はつまり死と接するであろう。それは癒着という接触であろう。
死が私の考える死の在り方と類似しているならば、死後の世界を理論的に立証することは思惟実体の消滅により不可能であるのだから、死は単なる実体消滅の点として、そこに在ると信仰されるであろう。それは肉体の最後として、在っている、終末の一点である、と推察されるであろう。そのような推察は死との夢想的な癒着であろう。癒着とは、密なる偽装の稠密である。
その点を境に思考される死後の世界は、その存在を信仰するのであれば現実世界との時間的連続を有する為に信仰は現実的となるであろう。その信仰は謎でもなんでもなく、謎を解いた後の謎の認証であり、死後の世界を構築することは、最適の論理思考である。死後の世界を描いてみせることは現実的試みであり、舞踏の傍で行われる説法である。騒がしいものに隣接して行われるお喋りだと解してもらって構わないであろう。
また一方でその存在を信仰できぬものは死の点をもって一切が消滅するという虚無に陥るであろう。しかし、この虚無の実践は、通俗的なる欲求の解放に繋がるであろうから、いわば構築を必要としない論理となるであろう。これは通常の世界に蔓延る、いわば壇上主義である。壇上主義とは政治的なもの、選民的なもの、つまり、権威的なものと繋がる。権威とは、壇上からの眺め、その義眼の眼差しである。これもまた舞踏の傍の席で実践される、静かな眼差しの演舞である。
また死後の存在を信仰できぬものであっても虚無に陥ることなく、その一回性の覚悟をもって積極的に経験を実行する楽観的、心楽しい人生もありうるだろう。彼らは動物のような態度で、動物のような思索を、動物のような言葉の方法で語るであろう。彼らの語りは饒舌である。またこれもまた舞踏の傍で無意識に実践される無邪気である。無邪気なる権威ともいえるであろう。彼らはまた唯一確率的なものへと対抗する在り方で、在っている、無意識者である。ただし彼らもまた舞踏の傍に存するといわねばならぬであろう。
革新的な死に方は、無意識者の死から発生するが、神的な死は権威的な眼差しから創造され、平凡な死は夢想的な癒着から引き起こされるであろう。三種類の死に方の可能性が提示されるのである。また舞踏の無数は世間なる常識の世界である。あらゆる存在に隣接しているのは常にこの舞踏の在り方である。いわば舞踏と死は切っても切れない関係である。舞踏からもたらされる無数の眼によって、舞踏に接触した世界がひらかれるのである。故に舞踏は人間の、在っている、の寝具である。臥している、その、在っている、が立ち現れる為の、犠牲の音色である。舞踏の音色を破るとき、我々は<其の、死>に、在っている、のである。
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