第19話 死についての思索(19)---人生とは「死の場所」までの語りの旅である

子供じみた憧憬の眼差しは馬鹿にできないであろう。子供を子供と捉える者は子供以下の視線である。子供を見るときは、面白がらねばならぬ。それは得体の知れない、筋のない、観想的な、混濁の生物である。それはまだ人間に成りきれぬ、概念の怪物である。


その羨望には非合理的な閃光がたくさん煌めいている。己の目を裂くように圧倒的な概念が侵入する。子供は激しく夢想するであろう。彼はその夢想の瞳によって無双を誇り、常識なる瞳を拒否するであろう。子供の直感的な拒否は、概念の限界への拒否である。彼は己の思索の飛翔に限界を捉えたくないのである。


しかし、あらゆる子供は必ず落下するであろう。その崖からの飛翔は、必ず地面との衝突に終わる。その時、彼は気を失って、その目が開かれた時には、もう彼は初めて人間自体を目の当たりにするであろう。


目から素朴な確信が溢れ出る。彼は独立的確信の芽をみる。己のどこかに信じがたいほどの力動を感ずるであろう。彼は、こうしてはじめて人間となったのである。


純粋な夢想は、積極的な情操へと変貌し、それは日常性を踏破していく信念を育むであろう。その擬態の憧憬は非日常への好奇心である。その偽の好奇心によって彼はこれから何かをしようとしている。それは常識の世界での唯一の抵抗である。好奇心への熱中は、死への熱中である。彼は好奇心を介して、己の境遇を発見しようとしているのである。


常識の世界のあらゆる好奇心は、死へと向けられた好奇心である。それは死へと接合することによって境遇を獲得しようとする意欲である。それは奥深い接合を希求する激しい熱中である。その熱烈なるものが終末への憧憬である。死への熱中とは、終末なる場所の探究として発現する。その移動こそが語りを成すのである。故に、人生の物語とは、死の場所への憧憬の、その、語りである。それを俗に云えば「人生とは「死の場所」までの語りの旅である」と表すことができるであろう。

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