第18話 死についての思索(18)---人間を有効に家畜する方法は「自由」を与えることである
人生に落胆は付き物である。人生における激越な衝撃によりトラウマが生ずるが、それが個々を下支えしていた価値の保持の信念を破壊するであろう。その時に恐怖なるものが生ずる。恐怖は平凡な思惟と信念を離別させ、別々の過激な体系へと分裂させるのである。恐怖は領域を把握させ、規律を認識させ、仕切られた領域の中で飼い慣らすように作用する。
人間は恐怖という主人のその鞭に怯える。恐怖は一貫して具体性を再現するように迫る。そのような恐怖の恫喝は習慣となり、いずれは、恐怖は主体性をもつようになる。
恐怖は、主体性と共に自律性をも獲得する。恐怖はそれ自体で独立しているように錯覚するのである。恐怖を生み出しているのは己自身ではないとはいえ、恐怖の所在を把握できなければ己はもはや恐怖と同一であるといえる。
そもそもそれは客体として現に具象性を有する。恐怖はそこに確かに在ったものである。故に、それは非自己としてはじめは把握されたものである。しかし、それへの感覚を連続するうちに同質化してしまったのである。
それゆえに恐怖に打ち勝つためには本来的具体的なものが必要である。恐怖に対峙する意味は褒章によって表されるであろう。人間は恐怖に恐れるのではない。恐怖に対峙する意味のないことを恐れるのである。人間は死に恐れるのではない。死に対峙する意味の無いこと、その無観客性を恐れるのである。
そういった意味で恐怖の克服の為には必ず社会がなければならぬ。恐怖に己一人で挑むなどというのは馬鹿げた論理なのである。戦争暴力は他者性の過多をその本質とするであろう。大軍隊はその数の論理により、大暴力となるのであろうが、それは死の恐怖を克服した意味の膨大であろう。集団によって、敵の選定によって、人間はいくらでも死を克服できる。しかし、政治的なるもの、支配的なるものからすれば、平凡な社会において、死を克服すような人間は実に不必要である。故に政府なるものは、死の集中化を行わないように平時には努めるのである。
人間はほんのすこし目をかけてやるだけで、暴力的な兵器となること必定である。人間はその本来性において「群がりの死」、「集団の死」を容易に達成できる生物である。人間の自然を目覚めさせぬことが肝要である。平和とは、そのような思想が隅々まで染み渡った社会の実現である。故に、人間から自然的なるものを発現させぬ方法によって、それを達成するのである。そのための最も有効な方法が「適当な自由を与える」ことである。適当に放牧させることが、最も非自然的なるものへと人間を家畜する方法である。
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