第15話 死についての思索(15)---勇気の鍛錬・勇気の煌めき・人間の裏切り者=無なる者たち
自然死は磁場に引き寄せられる鉄屑のような死である。そのような力動に逆らい得ることの可能な唯一の力は狂信性である。未成熟な狂信はとかく鍛錬を必要とし、自律的に嵐を生成することで、その持続性を増す。嵐とはある種の霧である。霧とは高みへ変貌するための時の停止である。「霧から出でよ」という声こそ変貌の声である。
勇敢な魂もまた狂信の持続性に依っている。狂信の持続は狂信の常態化であり、その使用性は高まるのであり、知性的となる。知性とは狂信の操作であるといえる。短時間の狂信はそれだけで突発性が高く、予測不可能性が高まり、知性的ではない。船出したばかりの狂信は、それだけ経験不足である。ということは、知性とは経験的であり、勇気もまた経験がその土台にあるといえる。
均衡のとれた狂信性を獲得することは健全な勇気を養うであろう。故に熱烈なる死を顕現するためには、狂信的情操の鍛錬が必須である。全身全霊でその情操を鍛錬することがまさに勇気の生育である。鍛錬とはやはり経験の連続である。経験によって勇気の深さが増す。深淵なる勇気こそ、標高の高い勇気であるといえる。高さが大海から成されるように、勇気も深い窪みから引き起こされなければならない。勇気は隆起である。
またそのような生育の情操は世俗的な活力の中では培われず、必ず孤独と矛盾とを必要とするであろう。深淵なるとは底を知れぬものと底を知るものとの対峙である。一方が勝ち勝ればもりあがり、一方が勝ち勝ればもりさがるというのが標高なるものの力動である。その力動の始点は両者の頭の突き合わせの場である。その接触の場が、今ば現在である。故に、今、その、現在、において勇気なるものは常に生成の途上に置かれている。
勇気の生育とは内面的である。だが、そのような生活には単なる内面生活以上の根拠があるであろう。それはいわば外部に開かれた内面性といったものであろう。それは底知れぬ瞬間の煌めきの産物である。内包されぬ煌めきの反射がいわば外部の環境を造りだしているのである。故に外縁に勇気の手がかりは一切皆無であるといわねばならぬ。勇気らしいものが象徴されているというのは何かの錯覚である。勇気の発露は必ず事の発生と共に同時に吐出するのである。それは文字通り吐き出されるようにして顕現する。
その勇気の中心には激しい神が存在するという信仰があるであろう。このような信仰は勇気への憧憬と捉えることができるであろう。勇気への羨望を熱烈に抱いているからといって、その勇気が証明されるわけではない。勇気はその時でなければ必ず露呈しない。しかし、勇気の羨望のない者には必ず勇気がもともと備わっていないといわねばならぬ。本心から勇気を願わぬものは必ずその時には逃走するであろう。その者は何から逃走するか? もちろん、彼らは勇気の到来から逃走するのである。故に、勇気の閃光が煌めく時こそ、本物の非人間なるものが姿を現すであろう。その者たちはこぞって闇へと群となって逃走するであろう。彼らとは何か? もちろん、彼らこそ人間の最悪なる裏切り者たちである。つまり、無なる者たち!
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