第14話 死についての思索(14)---科学の道と演劇の道・バグった脳髄・「その、意志」というもの

人間の生命は最小の消費をもって最大の出力をあげる論理を有する。肉体の論理はこのような合理性にあるといわねばならぬ。肉体は、はじめから科学の論理と密接に結びついているといわねばならぬ。それはつまり演劇の肉体の使用というよりは戦闘による肉体の使用である。


ただし技術の習得には逆の論理もある。つまり、習得の過程には消費と出力の関係があまりに消費に偏ることがある。習得の経験とは、はじめ失敗の連続であり、失敗とは生産性のない結果である。あらゆる科学も、はじめは非生産的な運動である。それは改良のプロセスにおいて、科学的な道と演劇的な道に分離する。演劇の運動は科学的な道とは大きく異なっている。それは逸脱の道として奇形を含むユーモアの道である。


脳はこのような経験を嫌悪するであろう。つまり、演劇の道に引き回されることを畏怖するであろう。故に肉体の修練は、はじめ脳に敬遠されるであろう。なぜならば、脳は、科学的な道を夢想はするが、その失敗の道としての演劇の道を恐るからである。脳髄の最上の目的はというと勿論、延長の保存である。それも肉体の延長とは真逆の、夢想の延長である。脳髄の目的と肉体の目的は、決して相通ずることはない。


脳髄は肉体を操作するとき、必ず肉体に引き回される。ゆえに脳髄は肉体の優位性を発見するや否や、その勇気の欠如によって極端な暴力の命令を発することもあるであろう。それは「バグった脳髄」や「癇癪を起こした脳髄」ということができるであろう。脳髄の正体は、障がいのあるもの、である。


肉体の目的は、逸脱のその強さを発揮することである。しかしそのような肉体の自由な方向性と共に力の制御の目的も生まれるであろう。肉体はその時はじめて勇気の所在を知るであろう。肉体によって逸脱を免れるためには意志が必要である。そのような意志の実践の成果として、隅々まで充填された緊張状態が勇気の状態である。


勇気とは力の中立である。力で抑えることが可能と推定されるときに力を抑制する力であり、力の足りぬ時に怯まず前進する力である。勇気の使用には以上のような二通りがあるであろう。そのような勇気の無根拠をスリリングな平凡として担保しているのが意志である。故に、意志は本来、その形態として正しく作用している時、それは「その、意志」という状態である。「その、意志」の状態の、立ちあらわれが、われわれが通常に感知する「その、勇気」というものである。

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