第13話 死についての思索(13)---手の成立・手の殺意・脳の無脳・脳を殺害をせよ

手の成立、は技術の成立であり、のばし触れるもの、の発明である。

手の成立とともに人類は、まったく新しい脳を得たと思われる。

その新しい脳は、伸ばし触れるものとしての道具を生み、その手の上位に君臨し、命令的となった。

手は脳の従順な奴隷となったといえるであろう。


だが手が先に成ったという直感、肉体的組織の根源性は命令系統よりも優位であろう。

故に肉体はいつでもその命令を無視することができるであろう。

肉体の欲求とは真に自我を支配する欲求となるであろう。

その支配される自我は、脳を殺害する自我として脳の、不必要、を実践しなければならぬ。


脳の作用は単に道具の製作過程の歴史性のノウハウに過ぎぬであろう。

人類の手は脳を育てたが、手は脳に育てられたであろうか? 

いや、その脳は、手自身の育成を行わぬといわねばならぬ。

ならば、その手自身の育成は何が行なってきたか?

もちろん、それは手自身が、手自身を養ったのである。

その、手自身には殺意が宿っているといわねばならぬ。


手が脳の命令を聞かぬ時、新しい行為が為されるといえる。

そのような時にこそ人類の新しい行為が実践されるであろう。

単なる道具の制作は脳の退屈のための餌であるかも知れぬ。

脳は衰えること、傷つけられることを嫌悪する。

脳は、引きのばしの論理、延長の論理、を主とする。

脳には、戦いを回避すること、しか思考できぬ。

故に、その、肉体は、あの、肉体の論理、を思い出さねばならぬ。


肉体は攻撃されることによって強くなる。

肉体の強化は反作用の論理である。

強くなりたければ攻撃を受ければよい。

攻撃を受けたければ攻撃を実践すればよいのである。

それが肉体の本来の論理である。

肉体は、敵を殲滅したがっている、といえる。

破壊の力動をトライしてみたいと肉体の自然は思っている。


人間は肉体の論理の歴史のほうが長い。

脳の歴史は赤子の論理の歴史である。

赤子の論理は、泣き喚きである。

それは言語とならぬ、音としての単なる叫びである。

脳は、嫌だ嫌だと断固叫んでいると言わねばならぬ。

何を嫌がっているか?

それは、もちろん、脳は、死ぬことを嫌だっている、のである。

その、脳を、即刻、殺害せねばならぬ。

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