第12話 死についての思索(12)---過去性へと移行と未来性への移行・「無の感覚」・三つの相貌を持つ人間

過去を向いて生きる生き方と、未来を向いて生きる生き方とがある。過去性との接触は反省的であり、未来性との接触は実践的であろう。過去性と結びつけばその生は緩やかを固持するであろうし、未来性と結びつけばその生は高速となるであろう。だが、カントは過去性への歩みを「前進的」といい、未来性への歩みを「背進的」という。これは実に興味深い構図である。


現実性の度合いはどちらも相対的である。過去性と結びつこうが未来性と結びつこうがどちらも当人にとっては現実的である。ただし自我に閉じ籠る可能性は常に過去性との接触にあるといわねばならぬであろう。つまり自我という空間がもしあるならば、その空間への深まりは「過去性への深まり」であるが、その空間の外縁としての我々の非自我的空間は「未来性への深まり」であるのである。いわば我々の移行には、二重の移行という矛盾が含まれている。


故に、感性的な、被膜で捉えられる感覚は、はじめ「過去への遡り」、つまり、「過去性との激しい接触」は「無との接触」のごとくとなるであろう。


「無の感覚」とは、有限の可能性のひしめく夢想的世界の、無的な想定である。そこではあらゆる思惟が可能である、と想えるという感覚に浸ることが可能的である。特に分裂的、主観的自己否定が無限に可能であるように想定でき、夢想への歪曲した、独創的な思惟が可能となる。この場合の独自性とは、つまり「無限の夢想の可能性」への想定である。


このような思惟は何を意味するのであろうか?

どのような意味づけが、可能と見做されているのであろうか?


過去性の自己否定は、いずれにしても、その終局は「絶対的自己否定の不可能性の認識」へと通ずる。「過去性への遡り」は徹底的なストイシズムの実践の場への、居合わせ、として立ち現れるであろう。


そのような思惟が生起すると、思惟者は静的から動的となる。自ら閉じ籠った空間を無限に破りたくなる。いわば「無限の被膜」を夢想し、その無限性へと自己の外縁の有限性を戦闘的に配置してみたくなる。矛盾の対峙を、おのれの目の前に、披露してみせる、のである。この時点で、おのれなるものは三つに分裂するであろう。それは、壇上的なるもの、と、非壇上的なるもの、と、映写機を回すもの自体、である。


したがって、パトスの生成は自己否定の矛盾性の契機にある。「過去への遡り」の主体は三つの分裂体として、「映写機を回すもの自体」的なパトスを生み出すであろう。そのために「壇上」と「非壇上」の構図が、働かしめるための場が、立ち現れなければならぬ。


その映写機的人間は矛盾を掻き集め、無限に配置し、映写機の空間から傍観し、躍動する。人間の生死には、圧倒的矛盾の到来の、その観察者が不可欠である。激しい生死の行われる時代の、人間は、その内側に三つの相貌を、居合わせとして隠し持っている。

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