第11話 死についての思索(11)---群がりの死・吝嗇な結びつき・壇上の君臨・死の源泉

退屈は、苦しみであるといわねばならぬであろう。

人間は退屈を選択するよりは闘争を選ぶであろう。

人間の歴史とは退屈の歴史ではなく、闘争の歴史である。

それは言葉を変えれば「群がりの死」の歴史といえるであろう。

人間の暴力的闘争、つまり戦争はその「群がりの死」の最大のものである。


ただし退屈を好む人間もいるであろう。

それは闘争によって勝利した権力者であろう。

権力の座にあれば、面倒な闘争は避けたいであろう。

権力者は「吝嗇な結びつき」に依存した空虚な時を味わうであろう。

なぜなら彼らは、みずから語ることの他に、他者に語られるからである。

他者に語られるとは「好き勝手に解釈される」ということである。


闘争の根本にはその闘争者の無名性が潜んでいるであろう。

それは人格の無名であり、人格の無名の不安である。

彼らは自らの人格を知らしめるために闘争に勤しんだのである。

それも安全な部屋からの参戦として。

そうして彼らは、勝利することによって、その安全な部屋の代表者として見せかけの無名性から脱したのである。

その瞬間に彼らの闘争は終焉した。

彼らは無名性を支配する者たちとなって壇上の上に君臨したのである。


彼らの相貌は柔和となり、彼らは人々の羨望によって、その人格もまた変貌したのである。

彼らの退屈は、あっけなく消滅した。

彼らはどこへ行ってもその相貌を知られる人間となった。

彼らはその相貌を失わぬために、あらゆる闘争の批判を始める。

闘争自体が彼らによって規制される。

彼らは「我々は平和を希求する」と云う。

このようにして権力は安定的に広まっていき、定着する。

あらゆる闘争は暴力という名の下に完全なる悪となり、言論の対話が最重要であると支持される。

権力者の筋肉はこのようにして衰え、その腹はでっぷりと太るのである。


このような肥満を破裂させるような死が今や求められている。

権力者の腹を貫通する命の出現が今や待望される。

このような肥え太った腹の裂け目から、新しい、その、命、が誕生するのである。

それを、裂いて、開いて、出たつ、その、者こそ、闘争の復興者である。

あらゆる闘争は、そうして再び生成されるのである。

闘争は、生命の源泉である。

故に、死の源泉でもあるのである。

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