第10話 死についての思索(10)---維持の欲望・透明な伝統・複数の死の共闘
人間は幸福を求めるものであるが、その究極は生命維持の欲望である。生命が欲望であるというよりも、保ちをもたらすもの、が欲望であるといえる。破壊との調停者としての機能が、維持の欲望である。故に、維持の欲望は穏やかな、微笑ましい欲望であり、最大の抱擁を有した欲望である。
人間の出逢う世界は生命の世界である。生命の世界がその土台にある。この根本世界が脅かされるとき、人間は真にデモーニッシュな存在へと還る。生存を約束されない状態の人間はあらゆる幸福の余分な鎧を脱ぎ捨てるであろう。生きることが人間の唯一の驚異であり、欲望であることにはじめて気がつくだろう。
人間は生きることを欲する。それは、保ち、おおきなものへと育む、ということである。生きることは膨張の獲得である。それは未知の方角への膨張である。未知が、条件づけられたものから溢れ出すということができる。
ただし人間は単なる膨張を好まぬ。人間は、美的な膨張を好むのである。人間の死は、その意味で最後の美の獲得である。あらゆる美も、最終的には死に統合される。死者となって美を所有することは不可能である。幽霊の行為に感動する者は、おのれを美を失ったものである。美の行為者は、常に有限の側にもたらされるということができる。
故に死は形式的なもの、伝統的なもの、フォルムの継承である。人間があるフォルムのなかで死ぬことを恐れ、拒否するようになったということは伝統が途絶えたということであるといえることができる。伝統は容易に崩壊せるものである。だが、あるものからあるものへと伝統は姿を変えて、結びついている。真の伝統は透明な伝統である。目に見える伝統はただの政治的な伝統である。
死に方の偶然性が支配的となったということは人間はフォルムから自由になったということであろう。人間は自然と同化して、自然消滅を望むようになったということであろう。自然がフォルムとなったということは、人間は激昂を失い、穏やかになったということもできるであろう。
しかし、人間の死への好奇心は決して消滅しないであろう。それはいずれまた結晶となり、好奇心の塊は歴史性を形成し、また新しい死の伝統が気づかれるであろう。歴史は繰り返されるとは、つまり、前進ではなく、背中へ進むことを意味するであろう。
いずれにしても死を復活させるためには、はじめの死の結晶が必要となる。その始まりの結晶は一人の生命では出来上がらぬであろう。それが結晶として能力を発揮するためには多数の生命を必要とする。そのような死の共闘をもって、再び死の再建が始められるであろう。
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