第8話 死についての思索(8)---完全死・不完全死

死の瞬間は一刻一刻と迫っているというのは単なる自然史的死にだけ限定される表現である。我々の肉体は日々死へと前進しているが、我々の肉体は我々の意志によっていかようにも運動させることができる。我々は意志すれば即刻自死することも可能である。故に人間の一生は単に一定の流れをもって進むとは限らぬ。我々はその自身の自然死の前に死を決意するかもしれない。世間の俗事を知らずにこの世を駆け抜けるかもしれない。人間は死者への関心をなくしつつある。人間はもはや死への創造力を働かせることができぬ。人間は人間自体が俗事の奴隷となってしまったのである。もう人間は死ぬことはできぬ。死に出逢う人間はもういない。人間はもう生の節制に努めることはできぬ。人間は生の大海で溺死するしかないのである。もう完全に死ねる人間は死んだのである。完全死とは、各自性を超越した死である。


戦争時代とは社会的集団死を自覚する時代である。我々の時代はパトスによる創造物であるといわねばならぬ。社会は決して外部にあるのではない。社会は創造的なものであり、その世代の自覚的意志の集合物である。一定の目的が個々に共通し、ロゴスによって客観視されたものが時代である。戦争を実行することも戦争を実行しないこともどちらも行動的であるが、自発的、積極的であるのは戦争遂行の意志である。しかしごく稀にではあるが、戦争を実践しない者のパトスが激越となることもあろう。戦争反対の激しいパトスは、その反面に戦争遂行のパトスを宿しているといわねばならぬ。力とはどこまでも中立的なものである。戦闘反対の日常非実践者は、その戦闘の程度というものを知らぬが故に、その戦闘の避けられぬ時に、いかにもおぞましい行動を選択するであろう。彼らは勇気の片鱗も持ち合わせていないのであるから、戦闘とは敵を殲滅することだと、あらゆる卑劣な行為を即座に判断するであろう。ルールの無視も行われるであろう。戦闘とは日常性である。戦闘は意識的訓練によって成り立ちうる。戦闘を知らぬものの判断は極端へと傾くであろう。故に戦闘の意志は継承的なものである。それは日々の訓練の教導的なものである。真に勇敢な者同士の戦闘は、公平であろう。戦闘の最も恐ろしい現象は、その公平性の欠如である。そのルールを無視された者たちの死は永遠に報われないであろう。その不完全な死は、奉られ、大切にされようとも、その場所には居ないであろう。不完全の幽霊は、必ずや報復の風となって、かつての敵に再び挑むであろう。

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