第7話 死についての思索(7)---新しい死の実践・誰が新しい死を成すか・新しい人間の誕生

死は自由と密接である。死がなければ自由はないといえる。何故ならば有限性がなければ我々の行為は無限であるからである。我々は有限性の檻の中の生物種であり、ゆえに選択的である。人間は選び取り、決心しなければならぬ。その決心の連続が個人的歴史を創るのであって、選択がなければ創造はない。また、身体がなければ自由もなく、死もない。あらゆる行為は身体的である。現実の世界で力動的なものは身体的生命のみである。死とは身体の消滅であり、運動の消滅である。身体の消滅が死の到来である。身体の消滅に思惟はない。故に我々の死には苦しみはない。苦しみを感じるのは現実世界の身体的存在者である。我々はもうすでに消滅し、規定された運動を己の経験のように反芻して感動するのである。感動もまた身体的行為である。身体のないところに感動はない。故に精神と身体は分つことができぬ。それは単に吝嗇なる空想的ロゴスの、単なる仮の認識に過ぎぬ。身体的ロゴスはしたたかに常に覚めている。身体の目覚めのなかで、新しい死は実践される、に違いないのである。


死生観の革命が今こそ必要であろう。革命の発生には必ず新しい矛盾の提起がなければならない。革命は新しい問題提起の実践の転換点であり、特異点である。革命に教条主義はない。革命に反省はない。革命は実践の連続であり、実践の特殊性の発露である。従来の実践とは異なった実践の始動点である。故に矛盾の渦中にあるともいえるであろう。革命の実践は嵐の中を船の心境に近いであろう。情熱のない日和見主義では太刀打ちできぬ。圧倒的な決断の連続が迫られている。排除してきたものが役に立ち、維持してきたものを海に放り投げなければ生き残れぬ時である。嵐が去った時、船上の景色は様変わりしていることであろう。ただし変異は必ずしも発展であるとはいえぬ。それは前進ではなく、後退であることもあり得る。ただしこれもいっておかねばならぬ。革命とは断絶である。よって全時代と比較することはできぬ。革命は素数の現象である。死生観の素数的革命が今こそ求められている。何者かが、その、人間、のまったく新しい死に方を体現せねばならぬのではないか? それを君が成すか? それともこの私が成そうか?


一般的社会的な死からは超越的なものは生まれない。社会的な死は通常のロゴス的であり、常識的であり、慣習的である。それは世界の演者となる人格ではなく、観客的な人格であろう。舞台の上の演者の人格は非常識的にパトス的である。演じるとは自己の外殻に抜け出ることであり、絶えず非人格的者として己を晒すことである。ロゴス的観客はその抜け出た人格を捉え、解釈しなければならない。そこに新しい人格の生まれる契機が確かにあるのである。単に演者だけでは新たなるものは生まれないであろう。そこにはやはり見るものと見られるものの刺激的な関係が成立していなければならないであろう。このような時にこそ新しい死が創造されるのである。故に世界という舞台を介して相反する人間が対峙した時、はじめて新しい人間が誕生するのである。

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