第6話 死についての思索(6)---重複の死・大衆への死の誘惑・日常は変化する

己の根底に潜む悪を掴み、引き摺り出して自らの敵とし、闘争することは弁証法的である。この悪はまた己とは相反する運動原理を備えたもの、つまり己の原理と矛盾するものと捉えられるであろう。ヘーゲルの弁証法は故に闘争的であり、その核心を捉えたのがマルクスであった。闘争的弁証法は人格形成の、世界形成の、あらゆる形成のメカニズムであると近代は解釈してきたのである。だがそれは大きな間違いである。矛盾は明らかに生成のメカニズムではなく、単なる創造物である。自己の探究のために建築された己を映しだす鏡である。矛盾は発見されるのではなく、発明されるのである。矛盾があるために闘争的なのではなく、闘争的であることは人間の業である。人間は闘争的であるが故に人間的であるのである。故に非闘争的の人格追求はペルソナに帰結する。故に仏教はあまりにも厚い仮面を被っているといえるのではないだろうか。その仮面は幾重にも無限に進行しつつあるといえるだろう。故に仏教的死の方法は新規性が潜んでいるのである。そこには幾重にも重なり合った、重複の死の余地がある。それは人間と非人間の同時的な死である。


大衆とは日常性の奴隷であろう。多数の奴隷が社会を占めているように、歴史においても大衆の日常性はその地盤である。大衆は群となって歴史性の土台となる。世界史的人物は大衆とは異なる。その人物は歴史の基礎を大きく揺がす存在である。ある事件がその人物によって引き起こされ、大衆が動員される。その人物は大衆を導くある気分を生成する。歴史の脚本家は常にこの人物であり、歴史の実践者はいつも大衆である。大衆が笑えば、それは歴史であり、大衆が泣けば、それも歴史であり、大衆が眠れば、それもやはり歴史である。大衆の動かぬ歴史は単なる出来事であり、事件であろう。死に方を根本的に変えるには、大衆の日常性に挑まねばならぬ。大衆への詩的な死が求められている。大衆を死へと一直線に惹きつける死の誘惑が為されねばならぬ。


日常性は歴史の基盤であると断定できるであろうか。そもそも歴史には日常性という土壌が想定されているが果たして本当に日常性なるものが存在するのであろうか? しばしば日常性とは多数性と混同されるであろう。多数であれば日常的であり、ありふれたものであり、平穏なものであると捉えられるだろう。しかし、革命的日常性や動的日常性のようなものは考えられぬであろうか? ある日常性にも非日常性の可能性は潜んでいるのではないであろうか? 歴史認識においてもある時代の歴史性の常識が日常性から非日常性と解釈の変更を引き起こすことはあるのではないだろうか? おそらくそれは起こりうるであろう。故に単なる日常性といえども、非日常性という新解釈を潜ませているであろう。それは日常性というものが単なる解釈の創造によって実践されているということである。日常性の連続は実践の連続である。日常性の破綻は新解釈の台頭である。日常性はいつでも否定の脅威に晒されている。日常性は変化する。

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