死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)
第3話 死についての思索(3)---生き死に・超越的眼力・世界の色彩を決断する人間・生の形相は死の形よりも恐ろしい・死狂・有限の継承者・軽やかな死の革命児
第3話 死についての思索(3)---生き死に・超越的眼力・世界の色彩を決断する人間・生の形相は死の形よりも恐ろしい・死狂・有限の継承者・軽やかな死の革命児
死の形相は時代のうちに縛られているといえる。その時代その時代が個人に死を与えるともいえる。人間の生き死には個人的である前に社会的である。社会を破る生き死には監視され、排除される運命にあろう。だが、その中から革新的な生き死にをもたらす世代は新時代の寵児となる。その変異はロゴスの方法のもとでパトス的に行為されるであろう。運命との闘争において創造は生まれる。その闘争の勝者が新しい、その、生き死に、の代弁者である。故に人間の生き死に、には常に創造的である。そこには無限の領域が広がっている。規則性のない領域であり、規則化が発見されそうになれば突飛な作用の生まれる領域である。
パスカルの、不安な好奇心、を思い出さねばならぬ。動きすぎるのは人間の不安のためであり、好奇心の奔放は、その隠れ蓑である。完全なる楽観主義は死への懺悔であるといわねばならぬ。日常性の中へ埋もれさせてくれるものこそ好奇心である。故に好奇心は死への無責任であり、目眩しであり、気紛れの妖精である。妖精は決して死なぬが、人間の死は自然必然的である。唯一の現実はこの好奇心の揺籃のうちにある。好奇心に惑わされぬ真にリアリスティックな人間は、おそらくその人生において不利な存在であろう。なぜなら彼らはみな、自ら生命を打ち捨てる自殺者だからである。真に、死に様の現実に目覚めているとは、その自殺者自身の超越的眼力以外にないであろう。
人間の生命は本来エキセントリックなものである。人間は世界的ではない。人間は世界から離心的に存在している。人間世界は即、世界ではない。世界の原理は人間の原理ではない。人間は世界にとっての異物であるかも知れぬ。世界には迷惑極まりない存在かも知れぬ。脱魂的な世界には人間の魂は理解できまい。人間の魂は技術的である。よってそれは人生に処する能力となって己の手中にあるときにだけ感じ取れる。地下室の魂でも天空の島でも人間の魂の色彩は変幻自在である。統一的色彩もあれば、二重、三重の色彩もある得る。人間の魂は、そのように生産的であり、世界に対して色彩として闘争的である。魂の要求はその色彩の支配である。故に人間は世界に、色好みとして敵対していると言うべきである。世界の色を決断するのは、常に人間である。
神は長らく無味の人間を喰らってきた。神はしばしばその口腔をぽっかりと開けているだけでよかったのである。あらゆる人間的行為はその口腔に自ら飛び込んでいった。人間自体がその口腔へと駆けることは日常性であった。しかし今日ではそのような神の食生活は疑惑的にさえなっている。神の口腔はもはや腐敗したのである。歴史的口腔がその働きを終えたとなれば、神は死んだとなるのも当然のことである。神は死んだといえども人間の死は未だ進行しつつある。人間は新たな神を要求する。古い神が新しい神に書きかえられる。このようにして神が捏造され、死がすり替わったのである。故に生も形を変えたのである。生の変形は奇形となり、死の形相よりも恐ろしい。
死の自覚は我意と幻視に密接に結びついている。我意も幻視も付帯的ではなく、自体的であり、魂の根源的な源泉である。我意は多様と統一に作用し、幻視は仮象の産出に作用する。己を厳しい批判に自ら晒すものは矛盾を生産するであろう。矛盾は自覚的に生産されたものである。客観的矛盾などというものはなく、矛盾は主観的である。我意と幻視の作用増大にはこの矛盾の付与が関係している。矛盾なき我意も矛盾なき幻視も真に行為的とはならぬ。自己を死において自覚するとは、死を破壊するということである。建設的自覚などというものに破壊の死はない。真に自覚とは時代の殺戮者と成ることであらねばならない。真の自覚とは、死狂でなければならない。
単なる生活者の魂は空虚といわねばならぬ。空虚は衰微した魂とは異なる。また空虚は仏教的無とも異なる。単なる空虚とは見えざる牢獄のようなものであり、盲目の局限のようなものであり、主観的空虚である。自ら創り出した透明の牢の中に自らを閉じ込める原理である。単なる生活者はその透明の檻の中に自らを投げ込んだ。それは自らの生命を投げ込んだということである。このペシミズムの帷は決して死んだ神にも見えぬものである。単なる生活者の魂は完全なる否定性の防壁である。死もこれを破れぬ。故に単なる生活者は永遠なる生命の維持者となったのである。単なる人間はもはや永遠存在である。それは死を完遂できぬ有限の継承者である。
特殊なる生命はその時代の一現象であろうか。やはり特殊なる生命は素数の如くであらねばならぬと思われる。その現象は必ず予測できぬものである。己の本性はこの素数であろうと信ずることは常に可能である。あらゆる特殊なる行為はこの信念が根底にあると考えられる。ゆえに信念は主観と客観の総合である。行為の前にあらかじめ行為の形相が創造される。行為者は行動者としての面と創作者としての面を持っている。行為者としての衣を編む行為は芸術運動として露呈するであろう。死を目的としてその衣を編んだ者は、真に決心した者である。その決心の契機が特殊なる生命の誕生の種子である。種子はやがて特殊なる死滅をおこなうであろう。その死滅によって死の種子が突発することもあるかも知れぬ。それを願おう。われわれは、軽やかな死の革命児を待望しているのである。
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