第2話 死についての思索(2)---心臓の停止・最後の振動・死を恐れてはならぬ・死を目指すという意味

よき魂を創作することは可能であろうか。よき魂がなければ、よき死はないといえると思われる。ただしき魂の教導がなければ、ただしき死はないと思われる。勝手な標的に向かって猛進するだけが魂の本来の正しさであろうか? よき生活から、よき魂、よき死が出てくるのであろうか? 懐疑的になるのは自殺であろうか? 頭で考える前に心臓で考えねばならぬ。私は一つの肉体を有している。私は一つの心臓である。心臓の所有は死の所有の第一条件でなければならぬ。頭が直接的に死ぬわけではないと思われる。頭の死は付随的であり、心臓の停止が死の停止の根本である。


死に方の不道徳を恥じることはない。ただ闇の中をひとり、彷徨していると思うことは単なる傲慢である。苦悩の偽装があっても彼の魂は欺かれない。理性の苦悩は徹底的になりきれず、単なる気休めにすぎない。理性はおそろしく楽観的であるのがその本性である。理性は「私は疲れ、傷ついている」という。手当たり次第に言葉を羅列し、虚栄的にさえなるのが理性である。一般的に理性をありがたがる人間は多いが、理性に憂鬱はなく、理性に懐疑はなく、理性に陰鬱はない。真に憂鬱を感じ、真に懐疑に苦悩し、真に陰鬱に苛まれるのは、ただただ心臓自体である。いつも傷ついているのは心臓という野獣なのである。その野獣の停止は、死の最後の振動である。


死を恐れてはならないという。それは自然であり、自然の必定であるからだという。が、そう考えてはならぬ。人間は死を恐れることができぬと考えなければならぬ。人間は険しき道から逸れることを拒むことができるのである。人間の道は死よりも広大であるといわねばならぬ。どの道も死に至ると考えてはならぬ。どの道も死は訪れるがその光景はまるで別物であるといわねばならぬ。人間は死の知識を蓄えねばならぬ。死の行為は決して統一されぬのである。死の実践は創造行為である。われわれは、死の理想を追求せねばならぬ。理想的な死を求めるのではなく、死が理想を目指すという形にならなければならぬ。その形相に恐怖はない。


死には品格があらねばならぬ。全ての死は同等といえるものであるはずはない。死の優劣とは自覚そのものの優劣であり、無限に憧れ求める生の情熱の源となるのである。優劣の認識があるからこそ、人間は競って生を輝きしめるのであり、死において創造を働かせるのであり、実践において他の人間を黙らしめるのである。優勢な死を目の当たりにして跪かぬ者は人間の最低なる人格である。そのような生命は無邪気ではなく、下劣な生命である。人間は人間の終末に感動せねばならぬ。終末と死は、完結としての完成へと導かれなければならぬ。完成が死と同一となることこそ、死を目指すという意味である。

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