Cheers To Goodbye -2-

 シルクのように波立つ空気の中、宙クジラの渡りの道の流れにそって箒を傾ければ、うんとはやくニンゲンの世界への路へと繋がります。

 境界線の曖昧になる夜。アシュリーも、街の笑い声や鮮やかな街灯に吸い寄せられるように少しずつ降りてゆきました。

 美味しそうな匂いは、きっとどこかの家族の食卓からでしょう。

 そっと、誰の目にも触れない高さを飛びながら、どこか独りで暮らしていそうなニンゲンの棲む場所を探しておりました。


 ちょうど屋根の高さまで降りたときです。

 どさり、と雪おとしたちのイタズラにまんまとはまってしまい、アシュリーは雪まみれのまま地面に落ちてしまいました。


「もう……! 失礼しちゃうんだから!」


 きゃっきゃと笑う雪おとしたちは、雪を落とす音でニンゲンをおどろかす精霊です。その音を、ニンゲン達は勝手に死体が落ちてくる音だから振り向いてはいけない——なんて迷信にもしていて、彼らはすっかりいい気になっておりました。


 雪のかたまりから身を起こすアシュリーの後ろでは、どさっ、どさっ、どさりっっ! たまらず一番大きな音の後に「いいかげんにしなさいってば!」とアシュリーは振り返りました。


「……えっ?」


 なんと振り返った先には、本当に一人のニンゲンが倒れていたのです。


「ちょっと待ってよ、本当に死体が落ちてくるなんて……」


 そんなこと聞いてないわ、と言おうとしたアシュリーの耳に「うう……」という弱々しい声が届きました。

 思わず近づいて、アシュリーは箒でその倒れているニンゲンを少々つついてみます。「ぐうううう」といびきなのか、お腹の音なのか、よくわからない音が響きました。


「ねぇっ、生きてるの?」


 アシュリーはそれが今日はじめて見るニンゲンだということも、すっかり忘れてはしゃがみ込み、倒れていた男に声をかけてしまいました。

 うーん、と唸った男は顔をほんの少しばかりあげました。うつろな眼差しが、アシュリーのグロゼイユの瞳とはっきり交差したような気がしました。


「なんだ……ちがうや」


 そう呟いたきり、男はばたりと雪の中に顔をうずめ、再び動かなくなってしまったのです。


「ちがうってどういう意味よ! ほんっとうに失礼しちゃう」


 アシュリーはぷりぷりと怒りながら、動かなくなってしまった男を起こそうとしましたが、一向に男は起きあがる気配がありません。

 これは仕方ない……とアシュリーは呪文を唱え、男の棲む家を探すことにしたのでした。





 男の名前はマーティといいました。どうやら暖炉の薪すら買えないような、しがない画家のようです。マーティという名前も、郵便受けにぐちゃぐちゃに突っ込まれていた封筒の山から見えたもので、彼自身は名乗りもしませんでした。

 目を覚ましたマーティはアシュリーには目もくれません。乱雑に置かれたワインボトルをがららららっとテーブルの上からはねのけ、デッサン用の鉛筆をとり出すと、さっさと書きかけのキャンバスの前に戻ってしまったのです。


「何よ、お礼とか……せめて挨拶くらいしたらどうなのよ」


 アシュリーはしまったと思いました。

 今回の試練で初めて出逢ったニンゲンが、まさかこんな痩せ細った誰の話も聞こうとしない偏屈だとは。今度こそ一人前になってやろうと息巻いていたのに、そもそも会話すらできないじゃありませんか。

 マーティは何やらキャンバスに書き殴っては、ぐしゃぐしゃとその伸び切ったボサボサの銀髪を引っ張ります。


「ちょっとアナタ、そんなことばかりしていたら死んでしまうわよ」


 返事すらしないマーティに、アシュリーは内心非常に腹を立てながらも、暖炉に火を灯し、暖かいスープの幻をテーブルの上に出しました。アシュリーは料理なんて、それもニンゲンの食べるものなんて作れやしませんでしたから、少しくらい食欲を刺激してこのガリガリの男の気を逸らしてやろうと思ったのです。

 けれどやっぱり、マーティはひたすらキャンバスと向き合うだけでした。そして床に散らばったボトルの中から、まだ中身のあるものを探し出してはグラスにも注がずぐびぐびと喉に流し込むのです。


「なんなの、アシュリーがここにいるというのに。アナタは見向きもしないなんて」


 ばたん、とアシュリーはキャンバスを上から両腕で隠すようにして、真正面からマーティを睨みました。

 赤々と燃えるようなグロゼイユの瞳は、決してニンゲンのそれではありません。マーティはそのボサボサの前髪からのぞく目を一瞬ハッと見開いたようでしたが「ちがうんだ……」とぼそりと呟くのです。


「何よ、何が違うというの」


「君は……鮮やかすぎる」そう力なく呟くと、再びマーティはがくりと気を失い、その場に倒れてしまったのでした。


「何よもう! まともに会話すらできやしないじゃないの。しかも鮮やかすぎるですって?」


 気を失ったマーティを仕方なくぼろぼろの寝床に運び、アシュリーは散らばっていた書きかけの絵たちを拾い集めてゆきます。


「今に見てなさいよ。ぜったいに、七週間の間にアシュリーのものにしてやるのだからっ」



***



 それからアシュリーは、毎日マーティに話しかけるようになりました。

 

 時折「綺麗ね」と彼の描いている絵を見て云えば、ほんの少しマーティは微笑んだかのようでした。けれどすぐに「ちがう」と云っては紙をぐしゃぐしゃにしたり、ワインを探して床に倒れ込んだりしています。


「アシュリーをモデルにしてもいいのよ」と自信満々に告げてもみましたが、「きみはちがう」と一蹴されてしまいます。


 アシュリーには正解がわかりませんでした。なのでまずはこの男に生気をとり戻させようと、身の回りのものを一生けんめい片付けることにしたのです。


 滅多に家から出てこないマーティの家の外で、掃除をしているアシュリーを見て、街の人たちは仰天しました。


「とうとうマーティのやろう、人を買ったんだ」


 マーティの描く絵は、どれもニンゲンの女性をモチーフにしているようでした。なだらかな曲線を描く……妖艶な、けれどもなんだかアシュリーにはそれがちっとも面白くありませんでした。


「だけど……捨てられた女にも、絵にも、全く似ていないようなまだ子供じゃないか。それになんだあの髪の色、染めてるっていうのかい?」

「まあ本人と同じでキテレツなのがお好きってことじゃないのかね」


 好き勝手にじろじろ見られて、アシュリーはだんだん腹が立ってきました。何よ、おまえたちのその髪を燃やしてやろうかしら……そう思った時でした。


「……ちがうよ、この子の色素は生まれつきのものだ」


 マトモに話すことも、立ち上がることもなかったマーティが、アシュリーのすぐ後ろに立っていたのです。


「この色は、決して染めても出ないようなバランスの色だよ。そら見てごらんよ、どこもまだらにも薄れもしていないんだから。この色は彼女だけの特別なもの、蔑むようなものじゃない。それに僕は別にやましいことなんてしていない、この子は絵ばかりで手の回らない僕を助けてくれていてね」

「そ、そうか……」

「第一、こんなに子供っぽい子に、僕が入れ込むとでも?」


 伸びすぎた前髪からのぞく目はぎょろりとしていて、街の人たちは

話もそこそこに退散しました。

 失礼しちゃう……! と内心アシュリーは思いましたが、気を取り直して起き上がってきた家の主に話しかけました。


「あ、アナタ少しはお話もできるのね?」

「……絵が」

「えっ?」

「絵ができたんだ……今日はそれを売りにいこうと」


 せっかく言葉が通じたかと思えば、もうマーティの返事はうつろなものになっておりました。そしてふらふらと、アシュリーが全て片付けてしまったワインのボトルを探しているようでもありました。

 まったく、とアシュリーは深めのため息をつきました。


「でもアナタ、そんな見た目じゃダメよ。絵だけではなく、自身の身なりもきちんとしていなくっちゃ」


 ぼろぼろの衣類は、仕立て直したようにぱりりとして。

 泡の魔法で包んで身支度を。

 ぼさぼさの銀髪は、その目が見えるように切って整えて。

 青白い顔色は見栄えが悪いので、アシュリーは歌いながらその頬に少しばかりの化粧をほどこしました。


 マーティはそんなアシュリーの姿を、されるがままじっと見つめていたのでした。

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