第26話

 次の日、仕事を終えたエリースが地下室へいくと「これをごらん」とヨルが一輪の黒いバラの花を差し出しました。


「これはなに?」

「魔法のバラだよ。これを身につけるとね、きみの歌声は生前の一番美しいときのものと同じになる。そして、きみの歌声を聴いたって誰も苦しむことのないおまじないがかけてあるんだ。けれど、花びらがちってしまえば全ては元通り、三日間だけの魔法の花だよ」

「わざわざこれをわたしに……?」


 とまどいの隠せない様子のエリースに、ヨルはまた不思議な気持ちになりました。ユルもエリースも、自分がいいことだと思って渡すものにはなんだか複雑な表情をするのです。

 内心「またぼくは選択を間違えたかもしれない」と焦って首をかしげたヨルでしたが、次の瞬間エリースはまるで花が咲いたかのように微笑みました。


「とってもきれいだわ!」

「ああそう、お気に召したのならよかった」

「ええ、だっておまじないのこもったバラだなんて、生まれてはじめてみたのだもの。幽霊ファントマにもなってみるものね」


 そしてエリースはお礼にと、大地と神を讃える歌を歌いました。

 バラの花をしっかりと胸に抱いて、微笑んだ表情のままステップをふみました。それは誰かに届けるためではなく、純粋にヨルへの感謝と喜びの心を歌ったものです。

 エリースはなんだか心がわくわくして、歌うことが楽しいと思う心を取り戻したのを感じていました。


「どうかしら?」

「いいんじゃないの」


 ヨルの言葉に、エリースは「なんだかそっけないわね」と笑いました。けれど、彼女には必要以上に飾りつけた言葉なんていらないことを、ヨルもエリース自身もよくわかっていました。

 ヨルはそれきりしばらく何も言いませんでした。本当は、自分が涙を流せる姿であったら、拍手を送ることのできる姿であったら、そうしたい気持ちでいっぱいでした。だってこれまで、ヨルのためだけに歌ってくれる者なんて誰ひとりだっていやしなかったのですから。


 それからエリースは、昔の自分を思い出したかのように夜が来るまでずっと歌い続けました。難しい曲から、柔らかな讃美歌まで、それはもうたくさんの歌を。

 ヨルはそれを黙って聴いては、いつの間にか心地よい眠りの中に落ちていくのを感じていました。


 次の日も、エリースはバラの花を持ってヨルのそばで歌い続けました。

 その歌声はもう誰も「のろいの歌だ」なんて言えないほどに、美しくて心を揺さぶるものでした。

 ヨルは「うん、いいんじゃない」と言ってただ目を瞑るだけです。けれどもエリースにとっては、それでもう十分なのでした。


「夜が来てしまうわ、仕事に行かなきゃ」


 そう言ってエリースはそっとヨルの頬に触れました。


「ありがとう、ヨル。わたし、あなたのおかげで勇気がもてたの」

「そうかい……。キミは歌の勝負に出ると決めたんだね?」

「ええ」


 エリースの瞳は、強く輝いていました。自分にもできるのなら、エレンを家族の縛りから解いてあげたいという強かな意志がそこにはこもっていました。


「まあ、大丈夫なんじゃない。自信もって」


 あいかわらずそっけない態度のヨルでしたが、それでもエリースはありがとうと一言告げると、その頬にキスをして地下室を去っていきました。


 ヨルはびっくりして、まるで凍りついたかのようにその場に固まってしまいました。けれどやがてふうと息をはき、自身の尻尾を静かに見つめました。


「幸せにおなりよ、エリース」


 ヨルはそう呟くと、ゆっくりと目を閉じてはまたつまらなそうに眠ってしまったのでした。

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