第23話

「あははははっ」ヨルはその獰猛な牙を噛み合わせることはなく、そのまま大きな声をあげて笑い出しました。


「ああ、おかしい。このぼくが、七つの海と六つの大陸に通じ、八つの世界を見通すこのぼくが……なにも知らないだって? あははははっ、そんなことを言う子ははじめてだよ」

「なにも知らない、は確かに言い過ぎかもしれないけど。でもっ、少なくともあなたは誰かの気持ちに寄り添うことはできていないわ」

「そうかい、そうなのかい。それはおもしろい話を聞いたよ幽霊ファントマ。世界とちいさなよわい生き物たちは、案外小難しく生きているようだ。じゃあ、ぼくにその寄り添う気持ちがあれば、ユルはぼくを選んでくれたというのかい?」

「そ、それは……」


 エリースはヨルから決して目を逸らさないように注意しながら、それでも次の言葉に迷ってしまいました。


「ほらね、そこはわからないと言うんだろう? 「わからない」って便利ですごく無責任な言葉なんだ。地上に生まれ落ちた、ちいさな生き物だけに許された特権なのだよ」

「あなた……支配人オーナーとは全然違うのね、いじわるだしひねくれてるわ」


「なんだって?」ヨルはその大きな眼をさらに見開いてエリースに詰め寄りました。


「きみは知らないんだな。にいさんはそれはそれは恐ろしくていじわるなんだよ、ぼくなんかよりずーっとね。だけども今は牙を隠しちゃってるし……ずっと地上にいる間に皆に愛されて。ぼくとは違うんだ、おひさまの下を歩けて、姿もまともでさ。うん、うん、だから一緒にされてはこまる」

「ああごめんなさい」

「……?」


 エリースはそっと、舌を引っ込めたヨルの鼻先に触れました。ユル以外の誰かが自分に優しく触れるだなんて、ヨルにとってはとても久方ぶりのことでしたので、うっかり噛んでしまわないようにヨルは口をぎゅっと閉じました。


「なんなの……?」

「誰かと比べられたら、たとえ神様だって嫌な気持ちになるわよね。今度はわたしがいじわるだったみたい」

「べつに」


 ヨルはなんだか気まずいような不思議な気持ちになって、咄嗟に眼を逸らしてしまいました。この大ヘビは昔から誰かと対峙したときに、自分から目を逸らすなんてしたことがなかったのです。

「いたた……」慣れないことをしたからか、ヨルは片目を大きく縦に裂くような傷痕がつっぱって痛んだようでした。


「痛むの……?」

「少しだけね、大昔の傷なんだけど」

「痛いのは、あなたが生きている証拠だわ。でも痛みが残ると苦しいわよね」


 そのむかし、大きなこのヘビを力じまんの神様が釣り上げ、頭を殴りつけて再び海に沈めたという伝説があることをエリースは知っていました。

 まだエリースが生きているころ、その伝説を劇場では英雄のすばらしい物語として役者たちが演じておりました。きっと今のニンゲンの世界でもそうなのでしょう。けれどエリースは心の中で「勝手に釣り上げたのに殴るなんて、神様も自分勝手だわ」と感じていたのです。


「きみは……」

「わたしはもう痛くなんかないの、だって幽霊ファントマだもの」


 エリースはそう微笑んで、顔の半分をおおう血で汚れたレースをそっとめくりました。ぐちゃぐちゃに焼けてしまったその顔を、ヨルはじっとその大きな眼で見つめました。


「本来ならもう死んでいるわたしを、誰かをのろい、きつくすだけの存在のわたしを、この場所は受け入れてくれたわ。わたしはそう、あなたの言うとおり、未練と後悔で縛りつけられたみにくい亡者。忘れられていくだけのとり残されたもの。生きているあなたたちの方が、どれだけ傷ついていようが、恐れられる力を持っていようが、とても素晴らしくて美しいのよ」


 エリースはそう言ってもう一度笑いました。

 その笑顔が、傷痕が、ヨルの眼にはなんだか鮮やかにうつりすぎて。今もまだじくじくと痛んでいるように見えたのでした。


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