第18話 月下のファンタジア
おかあさまもおとうさまも、そのまたおとうさまのおとうさま——ひいおじいさまだって、立派な血統の
ヒトを惑わせる呪文よりも、数式の方が随分と得意です。
それにヒトを蠱惑し襲い、血を吸うよりも、献血用の血液を買い取る方がずっと楽だと思っておりました。
いいえ、本当のところはどうでしょう?
エレンは期待の御曹司でした。おかあさま譲りの真紅の右眼は視る者を全て魅了し堕とし、おとうさま譲りの黄金の左眼は全ての嘘を見抜き真実を喋らせるのです。
エレンの周りにはいつもたくさんの女のモンスターや精霊がいます。けれども皆、エレンの美しさをまるで自身を着飾る宝石のようにしか思っていないとエレンは知っておりました。それはエレンにとって、とてつもなく悲しくて虚しいことに思えました。
ですから彼は、みっともないできそこないの
「あれれ、しまった。夜露とトケイソウのお茶を切らしてしまったみたいだ。あれがないと、ちっとも寝れやしないのに」
本来は夜に蠢く
いつの間にか、エレンは昼も夜も、眠れなくなってしまったのです。
美しいオッドアイの下には……なんてことでしょう、とてつもないクマが!
周りの怪物たちは、そんなエレンを視ては、がっかりした顔をするのでした。
「仕方ない……暇つぶしでも」
そうエレンは夜の深い森の中へと足を踏み入れました。気ままな夜の散歩です。蝙蝠に姿を変えてもよかったのですが、なんだかゆっくりと風に揺られる草木の音を聴きながら歩いていたかったのです。
月はいつもより何倍も大きく膨れ、にんまりと笑っております。
森の獣たちは静まり返り、かわりに夜の植物や怪物たちの会話や笑い声が聴こえてきます。
ランタンのようなおばけ松ぼっくりやランプのようなすずらんが光り、そこかしこの道を照らしております。
カタラン、コトロン、と風に揺られて降りてきた星々は歌います。
「おや、これは珍しい。招待状はお持ちですかな?」
「招待状? そんなものは、」
「あゝ失礼。既にじゅうにぶんにお持ちのようだ、そら、お入りくださいな」
突然現れた
「今宵はそう、
「いや……それにこれは? 僕の知っている
「ははは、姿とはここでは意味なきものですぞ」
キャッキャ、ウフフと聴こえる声に足元を視れば。白とほんのりと桃色が芽吹いたような
お月さまに向かって、花々はその中央にあるぎょろりとした目玉をいっぱいに開きます。
「踏まないで」「摘まないで」「あらあらお綺麗な殿方だこと」
エレンはその眼に見つめられるのがなんだか居心地悪くなって、そっと目を逸らすと辺りを見渡しました。
黒い羊は美しい
喉を枯らしたローレライは、あおるように炎の小瓶の中身を口にして。
砂嵐は思う存分星の雫を味わいます。
蝿の王は豚の頭を被って、何やらあおみどり色をした液体を旨そうに嗜んで。
あちらこちらにドアが現れては、まるで落ちてくるかのように「ギャッ」と誰かが叫び声と共にやってくる。
天使の姿をした銅像は「あーヤダヤダ」と耳まで裂けた口から牙をのぞかせて大あくび。
「ねえあなた」
耳元で夜風の声がして、エレンはびくりと肩を振るわせます。
「どうしてそんなに怯えているの? 堂々としていたらいいじゃない」
「別に、僕は怯えてなんか……」
「ふぅん、でもごらんなさいな。誰もあなたのことなんか気にしちゃいないわ」
夜風はぞわりとヒトのそばを通りぬけ、哀しい叫び声をあげるだけ。春風のように誰かに語りかけるなんてありえないことなのです。
「でも、誰がそうしなさいって決めたの? わたしはわたしだわ」
夜風がふるりとエレンの頬を撫で、絡みつくような吐息で耳たぶをくすぐります。
皆が狂気に震え、狂喜の表情で中央の青白い炎に飛び込むのを、エレンはただただ見つめておりました。
お月さまはまるで裏側のような顔をして、ぎょろりとした目でガハハと笑いました。
夜空が黒と白に染まり、その向こうから朝日の香りが漂ってきます。
「さあ夜明け」
「夜明け、夜明け」
「選びなさいよ」
「さようなら、さようなら」
「ああかわいそう、かわいそう」
「あはははは」
キャッ、ぎゃああ、と叫ぶ
「さあさ、花が閉じぬうちに! それを夜明けに、朝灼けにかざそうではないか!」
「どうしたどうした? それを求めるものこそが、この夜に集えるのだ。きみも朝灼けを共に眺める資格があるのだぞ」
やんややんやと囃し立てられて、エレンはその小さな心臓が破裂するかと思いました。
震える手で、こちらを見つめる
「あら、ぼうや。あなたにはこちらがお似合いよ」
「えっ——?」
黒い手袋からのぞく、細い手首。エレンの手には
朝が、世界が割れるような声と共にやってきました。
朝陽だ、朝陽だ、と誰かが叫びました。
ほろほろと、黄金の天蓋も水晶のシャンデリアも、真鍮のドアも、それにありとあらゆる怪物たちも——。
灰のようにはらはらと崩れては溶けて消えて、流れてゆきます。
沈みながら、お月さまはガハガハと笑って。そして最後にくるりと裏返っては、大粒の涙をぽとりとこぼしました。
ばしゃり、とその涙をエレンは頭からもろに被りました。
何もかもがもうびっしょびしょです。
「危なかったわね〜、いいわ、今回はその花をあげるから。お好きに生きなさいよ、ぼうや」
「なっ、僕はぼうやなんて歳じゃ」
振り返ると、そこには喪服のドレスを見に纏い——けれどもその美しい顔の半分を血だらけの包帯で覆った一人の女性が佇んでおりました。
「何よ。夜会に参加していたのに未練でいっぱいじゃない、だから灰にもなれないってのに」
私と一緒よ、ぼうや。
そう微笑む女性を視て——エレンはおや? と何かに気がつきました。彼女はこれまでの多くの怪物や精霊たちのように、自分を好ましいとはこれっぽっちも思っていなかったのです。
「僕を視て、何も思わないの——?」
「だってあなた自身があなたを愛していないもの」
黒い女性は、朝日を背にしっかりと立つ
「愛を疑う前に、自分自身を愛して。なんなら手玉にとればいいのよ」
そう、
待って、待ってよ。
エレンはなんだかドキドキして。ああなんだか全身にようやく血の気が戻ったような心地さえして、
その手に持った一輪の花——願いを叶えるという満月草は、いつの間にかエレンの心を写したように、真っ赤な薔薇のように美しく咲き誇っていたのでした。
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