第11話
「マシュー……」
ユルはびっくりして、思わず立ち竦んでしまいました。
数日ぶりに会うマシューは、なんだかとても汚れていて、疲れ切っているように見えたからです。
「どうしたの? 怪我も、しているの?」
「そんなことはいいんだ。ユル、どこへ行こうとしていたんだと……おれは聞いている」
近寄ろうとすると、一方的にそう言われてユルは少しだけ腹を立てました。
心配したのに、もうお別れなのに。マシューってば、そんなこと言うんだ。やっぱりマシューは、ぼくのことがきらいなんだ。
「怪我、してないならいいよ。ちょっとだけ出かけようとしていたんだ」
「そんなに小屋の中をあらたまって綺麗にしといてか……?」
マシューの目はいつもより恐ろしげに輝いていて、その視線は小屋の中をさっと見渡しただけで分かってしまったようです。
けれど、ユルはもう決意をしたつもりでした。ですから、勇気をふりしぼってマシューの目を見つめ返しました。するとどうしたことでしょう、その目を見たマシューは、少し寂しそうに下を向いてこう言ったのです。
「そうか。そうだよな、やっぱりお前はニンゲンの世界がいいよな」
「ちょっと、どういうこと?」
勝手なこと言わないでよ、そう言おうとした言葉は静かに閉じられました。
ごめんな、と呟いたマシューはゆっくりと屈んで、そのままユルを抱きしめていたのです。
「毎年、毎年。この夜になると、おれはニンゲンの世界に入りこめるんだ。ユルの本当の両親や、呪いを解くために心の底からユルを愛してくれる奴を、ずっとずっと探していたんだ」
でもだめだった。そう囁くマシューの表情は、ぶかぶかの外套とすっかり煤汚れた毛に遮られて、まったくうかがい知れません。
「それなら、と氷の女王を探しにいったんだ。でも、門前払いされちまった」
「……だから怪我をしているの?」
ユルの震える小さな声には、マシューは返事をしませんでした。
かわりに、その髪をゆっくりと撫でると、ユルの身体を自分から離します。
「だからその……今年は一緒に宙クジラを見ないか、と思って。ほら、見たがってただろう?」
ユルの見開かれた目には、もうすっかり涙がたまっていて。それがぽろぽろと頬をつたい、こぼれ落ちておりました。
その涙を、マシューはゆっくりと指で撫でるように拭きました。もうずっと前から……ユルを拾ってきた頃から、マシューはその凶暴な爪も切って整えてくれていたんだということに、ユルはあらためて気づきました。
「だけど、ニンゲンの世界に行くなら止めはしない。あそこにはきっとおまえを愛してくれる奴だっているさ。他人に対しての礼儀作法だって、しっかり身についたんだし。もしかしたら、そっちの方がいいのかもしれないな……」
「そんなこと、言わないでよ……」
マシューのばか、と泣き出してしまったユルに、すっかりマシューはおろおろするばかりです。
「呪いは怖いよ、だって自分が凍りついてしまうんだもの。でも、ぼくはマシューやみんなと一緒にいたかったんだ。それが楽しかったのに、どうしてニンゲンの世界のほうがいいなんて決めるの?」
「ユル……」
「マシューはぼくのことがきらい? ぼくは、ぼくを捨てたかもしれないニンゲンの世界に行ったほうがいいの? 本当にそう思うの?」
「ユルのことがきらい? そんなわけ、ないだろ……」
マシューはすっかり困ってしまって、ユルが泣き止むようにそっと尻尾で涙をぬぐったり、手で頭を撫でてくれていました。
ホテルの仲間たちも、マシューも、ユルのことが大好きなのです。けれど、生きる時間の違うユルはいずれニンゲンの世界に帰したほうがいいとばかり、マシューは思っていたのでした。
「マシュー、ごめんなさい。ぼく、マシューにいっぱい感謝してるんだ。ずっとずっと、一緒にいたかったんだ。でもごめんなさい、もう約束しちゃったんだ……」
「ユル……何を?」
そのときでした。お月様は真上に昇り、風の色や匂いがさぁっと波のように変わってくるのが伝わってきました。
「きたぞ」「クジラだ! クジラの渡りがやってきた!」
遠くで、そう誰かが声をあげるのが聞こえてきました。
空を見上げれば、大きな大きな波のようなオーロラを引き連れて、宙の色を纏ったクジラが姿を現しはじめたところでした。
「さよなら、マシュー」
ユルは、そっとマシューの灰色の頬にちゅっとキスをしました。
びっくりしたマシューが固まっている間に、ユルはそっとその腕の中から抜け出して、裏庭の真ん中へと踊りでたのです。
するとどうでしょう。ずずん、という大きな音がして大地が割れました。そしてその裂け目から、巨大な巨大なヘビが姿を現したのです。
「ユル、約束の時間だ。迎えにきたよ」
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