第12話

「ヨルムンガンドだ!!」


 地面からせり上がってきたヨルの姿を見て、誰かがそう叫ぶ声がユルの耳にも響いてきました。


「ヨルムン……ガンド?」

「うん。ぼくのことをそう呼ぶ者たちもいるよ」


 ユルは知りませんでしたが、それは世界を一周してしまうほどの巨大な伝説のヘビの名前でした。彼が地上に現れると、海の水が大地を覆い尽くし洗い流してしまう……と言い伝えにあるほどの、すごい力を持ったヘビなのです。


「安心をおし。今日は宙クジラが季節を塗り替える夜、「ユールの夜」さ。その引力の影響で、海の水はいまの間はぼくの影響下にないんだ。地上の生き物たちを押し流すことはないのだよ」


 空にはオーロラを纏い引き連れてくるクジラの姿、地上には大地を揺るがす大ヘビの姿がありました。いくら怪物たちといえど、この状況には足がすくんでしまい、思わず祈り出してしまう者たちだって、少なくはありませんでした。


「ユル……!!」


 その中でたったひとり、大ヘビに向かって駆けていく姿がありました。そうです、マシューです。けれど彼の身体は、ヨルの尾に阻まれてユルに近づくことも難しくなってしまいました。


「マシュー!」


 思わず伸ばしてしまったユルの手の指先がマシューに触れ、鉄の手袋がするりと抜け落ちてしまいます。


「大丈夫だよ、ユル。この狼人間ヴェアヴォルフのことは傷つけないと、ぼくは約束しよう。さあ、行こうか」


 そう話すヨルの身体は、ユルの氷の腕が触れても決して凍ることはありません。マシューははっとしました。自分はいつも、手袋を外すなとずっと叱るばかりで、手を繋いでみたいと言っていたユルの願いを一度も聞いてあげたこともなかったのです。


「マシュー、ぼくはヨルといくんだ。約束したんだ。だけど、そうすればぼくの呪いは解けて、もう誰も凍らせてしまうことはないんだって。だから安心しておくれよ」


 ヨルの身体はユルを包んで、満月へと進みはじめました。ユルも、遠く離れていくマシューから目を逸らして近づいてくる月を見つめます。

 その姿を誰もが恐ろしげに見上げるばかりでした。


「いかせねえぞ……!!」

「マシュー!」


 びゅうびゅうと耳元で鳴る風の向こうで、マシューの声がしました。マシューは吹き飛ばされそうになりながらも、ヨルの身体を登ってきていたのです。


「おやおや、あれだけユルのことを泣かせておいて、いざってときにあきらめの悪いことだねぇ」

「おあいにくさま。おれは、まだその子のお願いごとをちゃんと聞いてあげたことがなかったんでね」


 マシュー、危ないよ、落ちてしまうよ。そういうユルの声も届いているのでしょうに、マシューはすぐそこまで登ってきていたのです。

 そしてユルの氷の腕を優しく、けれどしっかりと握りしめたのでした。


「ユル、ほら、なんだっけか」

「マシュー、だめだよ。マシューが凍ってしまうよ!」

「だめだ、せめておれはひとつだけでいいんだ。無精者だから、せめて最後くらいちゃんとユルの願いごとを聞かせてくれよ、ほらよ、なんて言ってたっけ」


 やめて、やめてよマシュー。どんどんマシューが凍ってしまう。ユルは涙を流しました。けれどこれで本当にお別れなのです。最後くらい、笑顔でいようとユルはいっしょうけんめい笑ってみせました。


「ねぇマシュー。どうかぼくと、手を繋いでほしいんだ——」

「お安い御用さ。ずっと繋いでてやるよ」


 ユルはマシューがそれで諦めてくれるものだと思っていたのです。けれど、手の力をゆるめても、マシューはしっかりとその手を繋いだままでした。

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