第9話

「おや、ユル。海の匂いを連れて、どうしたんだい?」


 地下からの階段を登りきったところで、ユルは突然そう声をかけられました。


支配人オーナー!? 戻っていたんですね」

「うん、ついさっきね」


 そこに立っていたのは、背の高い灰色の狼人間ヴェアヴォルフ。この【HOTEL GHOST STAYS】の支配人オーナーでした。

 ここのところ、星たちの様子がおかしいというので、世界中の星の灯りを修理してまわるためにひと月ほど留守にしていたのです。


「こんな朝早くまで、どこに行っていたんだいユル?」


 ユルはしまった、と思いました。もうすっかり夜は明けて朝になっています。

 今日の仕事をすべてさぼってしまっていたのです。


「ごめんなさい、ぼくついカッとなってしまって。仕事をさぼってしまっていたんです」

「そうか。それは反省すべき点だね。けれどきみの様子をみるに、仕事に出ることもできないような重大な悩みがあったようにも見受けられるね」


 その優しい眼差しは、不意に誰かを思い起こさせるようなものでした。けれど、その答えはすぐにはユルの中では見つけられず、ユルはまず今日の大広間での出来事を話しました。そうして話し終えると、今度は思いきって支配人オーナーにたずねたのです。


支配人オーナー、ぼくの氷の呪いはやがて自分自身をぜんぶ凍りつかせてしまうものだというのは、本当なんでしょうか」

「おや? 誰がそんなことをきみに教えたんだい?」

「……友達です。さいきん、物知りの友達ができたんです」


 はぁとか、なるほどね、と支配人オーナーはしきりに頷きながら呟いておりましたが、ユルに目線を合わせるようにかがむと、ゆっくりと話しはじめました。


「ユル、氷の女王の呪いはね、確かに年月をかけてきみを蝕んでしまう恐ろしい呪いだよ。けれども、ユルがまだ小さい頃から私たちはきみを見てきている。まだまだ、その現実を告げるには残酷すぎるとみんなで取り決めて……特にマシューからは「言わないでくれ」ってお叱言があったんだよ」

「マシューが……」

「そうだよ。よく考えてごらん? マシューは、自分の手や尻尾が凍りかけていても、いつもユルの心配ばかり。自分の身体が凍っただなんて言って、一度でもきみを叱りつけたことはあったかい?」

「……ない、です」


 そうだろう? 支配人オーナーはそう言ってユルの頭を優しく撫でました。


「でも、マシューはうっかり腕を出してしまったぼくに「こんな腕」って言ったんです。ぼくの腕を、本当はマシューは嫌いなのかもしれない」

「マシューが、一度でもそう言ったかい?」


 ユルはいやいやと首を横に振りました。けれど、マシューに怒られたことを思い出すと怖くて悲しくてたまらない気持ちが、不思議とまた湧きあがってきました。


支配人オーナー、ぼくの呪いを解く方法がいくつかあると……その友達が教えてくれたんです」


 そこまで言って、ユルはまたふと思い出したように支配人オーナーにたずねました。


「このホテルの一番下は、なんの部屋ですか?」

「そうか……やっぱり、彼に逢っていたんだね?」


 彼とは、ヨルのことでしょうか。もちろん、支配人オーナーともあれば、地下の部屋にいるヨルのことだって知っているのでしょう。


「立ち入り禁止だと、知らなくって」


 ごめんなさいと頭を下げるユルに、「いやいや」と支配人オーナーは手をふって返します。


「立ち入り禁止というか……あの場所は、彼自身が他の者を入らせないようにってね、ずいぶん入り組んだ魔法をかけているんだよ。だからユルが入れるということは、たいそう奴はきみのことを気に入ったんだろう」


 ユルは思いきって、支配人オーナーにヨルとの話を相談してみようかとも思いました。けれど、呪いを解くための方法について話そうとすると、唇がくっついてしまったようにまるで動かないのでした。

 どうしようかと迷っているうちに、支配人オーナーの胸にある飾りの中から、ベルがひとつ大きくなりました。何か大きな来客や、支配人オーナーにしかできない特大の仕事が降りてきたときになるベルです。


「おっと、もう行かなくては」


 支配人オーナーは静かにそういうと、頭に乗せたシルクハットをしっかりと被り直し、もう一度ユルの方を優しく振り返りました。


「ユル、どうしたいのか、それは一番きみがよく知っているはずだ。きみの心の中にある一番の望みをそのまま伝えることだ。シンプルだけれど、それがなによりの解決方法なんだよ」


 そう告げると、小さくウインクをして支配人オーナーはまるで煙のようにその場から消えてしまいました。


 ユルはふたたび、どうしようと困った顔でホテルの階段を昇りはじめます。


 一番の望み、一番の望み。

 それは——。


「マシューと手を繋いで、宙クジラの渡りを見てみたいなぁ……」


 けれど、自分はマシューと手を繋いだことなんて一度もありませんでした。宙クジラの横断の日に、マシューがそばにいてくれたこともなかったのです。


 支配人オーナーの言葉は、まるで不思議な謎かけのようでした。けれど、ユルの中には、パッと蝋燭の光が灯ったようにしたたかな決意が灯りはじめていたのでした。

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