母が意識を取り戻したと、病院から電話があった。以前に一度、ほんのわずかな時間だったが会話をしたことはあった。それでも久しぶりの母との対面には緊張して、私は待合室に立ち寄った。見知った顔は一つもなく、少し待ったが誰も来なかった。諦めて病室に向かう。

 クリーム色のスライドドアを、念のためノックする。母の弾んだ声が「どうぞ」と入室を促す。導かれるようにドアを開けた。瞬間、自分の顔が歪んだのが分かった。

「冬香、久しぶり。少し髪が伸びたね」

 髪を雑に束ねた母は、ニコニコと笑っていた。それにも会釈しか返せない。病室には伊花さんがいた。あちらも私には微妙な表情を向けていた。

 瞬時に頭を働かせる。まず、この女と父の関係を母は知っているのか。次に、私との関係を知っているのか。最後に、伊花さんが会えずにいた友人とは母のことなのか。

 少し考えをまとめる。

 一つ目はあり得ないだろう。浮気相手と楽しく歓談する妻というのは、どこかにはいるのかもしれないが、性格的に母がその一派だとは思えない。二つ目はどうだろう。私は今まで言う機会もなかったが、伊花さんが言ってしまったかもしれない。三つ目は十中八九そうだろう。だがそうなると、伊花さんはずっと会いたかった友人の夫と不倫したことになる。なぜだ。知らなかったのだろうか。

 でも、それよりも問題なのは……

「冬香、この人は伊花美鈴。私の、中学時代の親友なの」

 こんなに楽しそうな母に水を差すのが憚られるということだった。しかし……

「お母さん、この人は――」

 伊花さんが首をかしげる。母も同じように不思議そうに私を見た。だが、次の言葉を発しようとしたところに、

「桐江!」

 父が駆け込んできた。最近は涼しくなってきたというのに、額や首筋にびっしょりと汗をかいていた。

 母はにこやかに笑いかける。

「千蔭くん、遅かったね」

「ごめん、仕事放り投げて……走ってきた。ちょっと待って……」

 ひとごこちつけながら父は、「ずっと、ごめん。なかなか仕事で抜けてこられなくて、冬香に負担をかけた」と私に、「桐江、具合はどう?」と母に、「美鈴さん、ご無沙汰しています。あれから、烏丸さんは……」と伊花さんに言った。どこかよそよそしく、遠慮がちにすら見えた。

 伊花さんは軽く笑って、

「少しずつ、話してくれるようになって、笑顔も少しは。それに、加藤さんも最近は足繁く通ってくれているみたいで……」

「加藤先生が。……そうですか。それは、良かった」

 父は複雑な表情でほっと息を吐き出した。それを見て、予想していた二人の関係が音を立てて崩れる。

「なんで? 伊花さんと父さんは、不倫してるんじゃ……」

 思わず口に出していた。二人は目を瞠って、母は伊花さんと、父と、私を順に見て、大声で笑い出した。涙まで流して、ひとしきり笑うと、

「ちがうよ。冬香もずいぶん大人になったね。さっき美鈴から聞いたよ。二人が会ってるところ見たんだって? 二人はどこに行ってたと思う?」

「それは、その、ホテルとか……」

 母は笑いを噛み殺して、

「ちがうよ。刑務所だよ」

「え……」

 そして、話題の渦中の二人は気まずそうな顔で、説明してくれた。美鈴という少女と、烏丸という女性と、神田真央という少女の話を。

「父さんの姉さん……冬香から見たら伯母さんは、悪い人だったんだ。高校生のとき、母さんや美鈴さんをずっといじめていた。それで、美鈴さんが当時バイトしていた出版社の先輩――烏丸さんに殺された」

 父にそんな過去があるなんて、まったく知らなかった。確かに私はこの年まで親戚と会ったことがなかったが、ただ実家が遠いだけだと言われてきた。それに、母はフリーライター、父は教師をしている。ともに多忙で、だからだと思っていたが……まさか、そんな理由とは思いもしなかった。

 父は痛ましい顔で続けた。

「烏丸さんが憎くないといえば嘘になる。でも、何よりも許せないのは、姉さんのいじめを止められなかった自分自身だ。あのときちゃんと姉さんの振る舞いを止めていられたら、きっと、烏丸さんは罪を背負うことはなかったし、母さんや美鈴さんを傷つけることもなかった。だから、烏丸さんの面会に行ってきたんだ」

 そうして、さっきの伊花さんの発言に繋がる。烏丸という人はどうやら、前を向き始めているらしい。

「じゃあ、浮気じゃなかったんだ……」

「当たり前だろ。そんなこと、するわけない。父さんも、美鈴さんも、冬香と同じように、母さんのことが大好きだから」

 母はおどけたように頭をかいた。

「や、照れるね」

「桐江のことが好きなのは僕らだけじゃないよ」

 そのときちょうど、ノックの音が聞こえた。ドアが開かれ、女性の二人組が入ってきた。片方は身長が高く、片方は低く、親子くらいの身長差があった。二人の薬指には同じデザインの指輪が嵌まっていた。

「鈴先輩、お久しぶりです。意識が戻ったみたいで良かった」

 身長の高い方がいった。あとから、猪川という父の同級生だと知った。もう一人は椿という刑事で、猪川の恋人だった。鈴先輩という愛称は母の旧姓からきているらしい。

 しばらく私は蚊帳の外で、五人が思い出話に花を咲かせているのを見ていた。母は今まで眠っていたぶんを取り返すようによく喋り、よく笑った。もともとよく笑う人ではあったが、ここまで屈託のない笑顔は初めて見たかもしれない。

 話が一段落ついたところで、

「ねえ、冬香」

 真面目な顔を向けられた。自然と背筋が伸びた。

「お母さんね、あなたを産むもっと前――今の冬香くらいの年齢のとき、一度中絶しているんだ。自分は殺人者だって、ずっと死にたがりながら生きてきた。冬香にも、いつかそんな日が来るかもしれない。毎日毎晩、死にたい死にたいって希死念慮に駆られて、正しくない自分を恨んだり、正しくあろうとする自分を疎んだり、そうなってしまことがきっとある。でもね、どれだけつらくても、苦しくても、正しくなくても、生きていなくちゃいけない。死ぬまで何が正解かなんて分からないんだから」

 なぜ突然こんな話を始めたのか、中学生の私にだって分かった。集まった全員分かっていたはずだ。だからみんな笑顔を崩さなかった。

「美鈴にもずいぶん迷惑かけたよね」

 伊花さんは涙をこらえた笑顔で首を振った。

「そんなことない。むしろ私ばっかり助けてもらって……まだ恩返しもできてないのに……」

「ずいぶん返してもらったよ。あのとき美鈴と出会えたから、今の私があるんだ。もちろん、千蔭も、猪川さんも、椿さんも。冬香だってそうよ。みんなと出会えて、中学生のとき人生を諦めなくて、本当によかった」

「桐江……」

「千蔭、そんな顔しないで。あなたの命令通り、入院してよかったと思ってるのよ。まさか『なんでも一つ言うことを聞く』なんて学生時代の約束を使って、闘病させられるとは思わなかったけどね」

「ああでもしないと、桐江、自殺しそうだったから」

 父は泣き笑いの顔で、母の手を握った。

「よかったよ、ちゃんと生きてくれて」

「ええ。……でも、少し疲れたな」

 母はそう言って、ベッドに横になった。

「ごめんね、そろそろ寝るから。じゃあね、みんな。また見舞いに来てよ。起きられるといいけど」

 笑えない冗談を、笑って言った母に、一同は追い出された。みんなこれが最後の会話になると、薄々察していたのだと思う。椿さんと猪川さんは、今にも泣きそうな目で小さくお辞儀して去っていき、美鈴さんも一言、二言、父と言葉を交わして帰っていった。

 父も、仕事が残っているらしい。教師はたとえ妻が危篤にあっても、なかなか休むことはできないそうだ。

「冬香はこのあとどうする。もし帰るなら送っていくけど」

「私は……」

 帰ろうと思ったが、このことを天祢と繭ちゃんに報告したかった。

「少し、用があるから残るよ。お父さんは気にしないで、仕事に戻って」

「そうか。……ごめんな、冬香。ずっと一人にして」

「私、中学生だよ。仕事のこと分からないほど、子どもじゃないんだから」

「そうだな。でも、ごめん」

 父はバンドの細い時計に目を落とし、

「……じゃあ、行くから。帰り気をつけるんだぞ」

 出口へ歩いて行く。私も待合室に向かった。


 夕焼けの差し込む待合室には天祢と繭ちゃん以外いなかった。血を思わせる不吉な色をした夕日が、部屋の中を真っ赤に染め上げている。

「とうか……」

 天祢は真っ赤に充血した目で、私を睨むように見た。足が止まる。でも言葉が継がれなかったので、近くの椅子に座った。天祢はやはり何も言わず、私から目を逸らした。何かあったのだと分かっていたが、藪から棒に聞くほど野暮じゃない。それに、藪蛇になりかねない。

 だからお茶を濁すため、今日あったことをポツリポツリと話した。母の快復は伏せておこうとも思ったが、隠し事をしているようで後ろめたく、正直に話した。……そこに、以前の仕返しの気持ちが少しもなかったと言えば嘘になる。

「なにそれ……」

 話し終えると、こちらに向き直った天祢の青い顔がだんだん赤らんでいく。

 ガン!

 それは唐突だった。

 天祢が思いきり机を殴りつけたのだ。軽い素材でできているからか、椅子が一脚派手に倒れた。隣に小さく坐っていた繭ちゃんは緩慢に立ち上がって、椅子を直した。

「お前も、俺たちのこと、馬鹿にしてるんだな……」

 小さな声だった。

「え」

「……母さんが今日、父さんのことを知ったよ。前に言ったこと覚えてるか」

「うん。お父さんが離婚を勝手に進めてるんだよね。別の人と結婚するために。でもお母さんはそれを知らなくて……お母さん――絹代さん、その、大丈夫だった……?」

 上手い言い回しが見つからなくて、しどろもどろの返答になる。天祢は首を振って、

「一方的に罵られて、追い出されたよ。もう関係修復は無理だろうな。父さんも本格的に離婚調停を進めるだろうし……。難しいこと、よくわかんないけど、俺たちはもう、母さんに会えなくなったことだけは分かったよ」

 涙をこらえるように、眉間に皺を寄せた。繭ちゃんはいつも通り、兄の裾を掴んでくっついて座った。

「……こういうの、なんて言うんだろうな。俺たちは母さんのことが好きなのに、それを少しも分かってもらえなくて、母さんが俺たちを憎んでいることは、母さん以上に分かっちまうんだ」

「話し合えばきっと――」

「そういうの、もういいよ」

 口先だけの慰めは、心底からの拒絶で遮られた。

「なあ、お前も俺たちのこと馬鹿にして、哀れんでたんだろ」

「そんなこと……!」

 天祢は聞こえよがしに溜息をついた。そして、信じがたいことを言った。

「繭は人の心が読めるんだ。だからお前が、俺や母さんに何を思っていたか聞いた。……別に信じなくてもいいさ」

 繭ちゃんに目を遣ると、兄の服で顔を隠した。いつも睨んできていたのは、こういうことなのか?

「なあ、そんなに何かを哀れみたいのか。そうしていれば、自分は優れてると思えたか。それだったら、人間じゃなくて、動物を相手にしてればいいだろ」

 天祢はそれこそ、私を哀れむように言った。

「違う! 私は! わ、私は……」

「じゃあ、繭が嘘をついたって言いたいのか?」

 そうだ、と言ってしまいたかった。そんなのは嘘に決まっていると。

 言えなかった。

 私が彼らを哀れんでいたのは事実なのだ。

「俺は……俺らはお前のこと、友達だと思ってた。それなのに、こんな仕打ちってないだろ。俺らがなにをしたんだよ。親が貧乏で、病気で、仲が悪くて、支配的で、暴力的で。そんな、どうしようもないことで哀れがられて、それって、見下すのと何が違うんだよ」

 私はついに言葉を失った。彼は分かりやすく傷ついた顔をした。失望が棘となって、彼の声に絡みつく。

「もう、いいよ。お前の気持ちはよくわかった」

 身を翻し、部屋のドアを開ける。

「これ以上一緒にいたら、お前のこと殴りそうだ」

 攻撃的な言葉を、彼の口から初めて聞いた。

「追いかけてくるなよ。頼むから俺を、父さんみたいにしないでくれ」

 握られた拳が、今にも振るわれそうに打ち震えていた。

「これも返すよ」

 持っていた鞄を近くの机に置いた。それは私があげたものだった。きっと中には不出来な小説を保管してあるクリアファイルも入っているだろう。

「じゃあな。二度と顔も見せないでくれ」

 ドアが音を立てて閉められる。部屋は耳鳴りがするほど静まりかえっていた。私はいったい、どこで間違えたのだろうか。

 そこに忍び笑いが聞こえた。繭ちゃんだった。

「可哀想な兄さん」

 いつもの弱々しさは失われ、愉悦に浸ったように笑っていた。

「冬香さんも、可哀想ですね」

「あなた心が読めるって……」

「あんなの嘘に決まってるじゃないですか。知ってますか。人を依存させる方法。一つは相手に対して加害者として接すること。わたしの母がよくやっています。もう一つは、自分を被害者に見せ、庇護してもらうこと」

 今までの繭ちゃんはすべて演技だとでも言うのだろうか。

「なんで、嘘なんて……」

「話聞いてました? それとも理解力がないだけですか。わたしは兄を依存させてるんですよ。突然、心が読めるなんてクラスで言い出したらどういう反応をされるか分かるでしょう。嘘でも本当でも異端扱いですよ。それはいずれいじめに発展する。そうしたらいじめを兄に伝える。あとは転がるようにわたしに依存してくれます」

 小学生らしい笑顔で、小学生とは思えないことを言う。

「そんなの……」

「嘘だと思いますか。まあ、別にあなたに信用されたいわけじゃないので、どうでもいいです。でも、ここであなたと知り合ってから、兄さんはだんだんあなたにも依存するようになりました。それはいただけない。だから亀裂を入れたかったんです。まさかここまで上手くいくとは思いませんでしたけど。冬香さん、もう少し表情を隠す練習した方がいいですよ」

「私はずっと、あなたも天祢も友達だと思ってたよ」

 繭ちゃんは嫌そうな顔で舌打ちをした。

「反吐が出ますね。わたしは兄さんがいれば幸せで、兄さんもわたしがいれば幸せなんです。それ以外はなにもいらない。……親だって」

 もしかしたら両親の不仲も彼女が仕組んだことなのかもしれないと思った。繭ちゃんは兄と同じように身を翻し、ドアへ向かう。

「さて、あとの言うことはわたしも同じです。二度と顔を見せないでください」

 こうして私の小さな幸せの世界は崩れ去った。一人になった部屋で、放置された鞄を手に取る。ところどころの破れには修復の痕があり、『馬場天祢』と名前が書かれていた。彼なりに大事にしてくれていたのだろう。でも、もう終わった。終わってしまったのだ。ボロボロの鞄を胸に私は泣いた。

 窓の外には深い夜が広がっていた。


    *


 この数日後、母は眠ったまま亡くなった。深夜のことだったので、誰もその瞬間に立ち会うことはできなかった。

 母は死ぬ前に、手紙を残していた。ローズマリー模様の便箋が一枚。

 ただ一言。

『幸せだった』

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