次の休日。降りしきる雨の中、私は見舞いに来ていた。あれから体調を持ち直した母は前よりも顔色がよく見えた。依然、意識は回復していないが、悪化もしていない。私は、母が危篤状態だったときにあったことをいくつか話した。病院でのこと、学校でのこと、家でのこと。嫌なことも多かったが、いいことも少なからずあった。母の表情がさっきよりも和らいだと見るのは、自分勝手だろうか。

 こうして一人で話していると、自然と伊花さんのことが頭に浮かんだ。

 先日、駅で見たあの光景。本当に父は伊花さんと不倫しているのだろうか。

 父にそれとなく聞いてみても、はぐらかされるだけで、肝心なことは言ってくれない。それが答えなような気もしている。もし、その相手が、娘が仲良くしている相手だと知ったら父はどう思うだろう。そしてもし、それが母の耳に入ったら?

 考えたくもないことだ。

 そのとき――

「……と……う、ぁ」

 くぐもった声が聞こえた。驚いて母に目を遣る。さっきと変わった様子はなく、意識も回復した様子はない。疲れが溜まっているせいかもしれない。幻聴でも聞いたのだろう。あるいは雨の音がそう聞こえただけか。

 私は首を振って、病室の扉に手をかける。

 そこで、また呼びかけられた気がした。

「とうか、無理してない?」

 母を見る。母は薄目を開けていた。でも口は動いていなかったように思う。私は逡巡して、ナースコールを押す前に答えた。

「してないよ」

「たまには休んでもいいからね」

「ありがとう、まだ大丈夫。お母さんこそ体は大事にね」

 返事はなくなった。目を閉じ、安らかな顔で眠っている。心電図は正常だ。点滴も緩やかに供給されている。私はナースコールを離して、待合室へと向かった。

 伊花さんはいなかった。代わりに天祢と繭ちゃんがいた。先日とは逆だ。天祢は落ち込んだように肩を縮こめていた。その隣で所在なげにしていた繭ちゃんが私に気づいて、袖を引っ張って天祢に教えた。

「ああ、冬香」

 疲れ切った声だった。目元が赤く、腫れぼったくなっているのは泣いていたからだろう。

「なにか、あったの」

 天祢は力なく首を振った。

「もしかして……お母さんに何かあった?」

 先日、元気に人の悪口を言っていた絹代さんを思い出す。自分で治る病気だと言っていた。あれから体調を崩したとは思えないが、万が一と言うこともあり得る。

「病気が悪化したとか……」

 自分の声がなんだか弾んでいるように聞こえた。

「違うよ。母さんは別に、なんともない。元気だよ」

「そっか……」

 今度はトーンが落ちる。まるで、そうなることを願っているかのようで、自分がとてつもなく醜い生き物になってしまったように思えた。

 繭ちゃんから睨まれていた。私は顔を引き締め、天祢の隣に腰掛けた。ちょうど繭ちゃんは死角になる位置だ。先日からよく睨まれるが、理由は分からない。でも、褒められたことを思っていたわけじゃないので、どこか後ろめたい。

 みそぎをするように聞く。

「ねえ、自分一人で抱え込まないでさ、何があったのか教えてよ」

 救いを求めるような目が向けられた。天祢は言葉を迷わせることなく、

「父さんが再婚するんだ」

 それだけ言って、また黙ってしまった。絹代さんはまだ天祢達と同じ姓のはずだ。と言うことは……

「離婚するの?」

 天祢は一瞬、顔いっぱいに怒気を浮かべて、『院内ではお静かに』の張り紙を見て、声をなくした。ひどく悲しげな顔に見えた。遠くの方で雷が光った。窓に滴った雨が、稲光を砕いて乱反射していた。遅れて腹に響くような音がする。

「離婚は、するよ。でも母さんはそんなこと知らない。父さんが勝手に進めていることだ。再婚相手も、もう決まってるって。あの野郎、母さんが退院する前に全部終わらせるるつもりなんだ」

「でも、そんな、離婚なんて簡単にできるものなの? それに、親権とか……」

 聞いていいものか迷ったが、そこが話の要な気がした。

「多分、父さんについて行くことになると思う。母さんは収入もないし、結構、精神も不安定だし……」

 天祢は言いづらそうに顔を歪めた。

「だから、裁判になったら負けると思う。いくら父さんが浮気しているといっても、俺は学校に通えてないし、繭だって、きっと中学校に上がったら通えなくなるし、母さんがどれだけ嫌がったところで、最終的には離婚することになるんだよ。それで、俺と繭は、あいつと知らない女と一緒に……」

「わたしは……」

 繭ちゃんは兄の袖を掴んだ。思えば彼女の声を初めて聞いた気がする。

「お兄ちゃんと一緒がいい」

「うん、俺もだよ」

 ともに、しんに響くような切実な声だった。私は言葉に窮して、慈しみあう二人を見ていた。繭の視線が向く。既に見慣れた、鋭く、斬りかかってくるような目だ。

 それに気づかない天祢は、この世の真理を見つめるような竦んだ声で、

「……なんで、好き同士で結婚したはずなのに、喧嘩とか、離婚とか、不倫とかするんだろうな。友達とか兄妹はずっとそのままでいられるのにさ」

 そんなこと、私も知りたかった。

「私も繭ちゃんも、天祢から離れたりしないよ」

 気休めにもならない言葉だ。それでも天祢は嬉しそうで、勢い余って、繭ちゃんだけではなく、私にまで抱きついてきた。

「俺もだよ。俺にとって、二人とも命と同じくくらい大事な人だから――」

 天祢の体は温かい、というより熱いくらいだった。震えた声で続ける。

「だから、二人は俺から離れないでくれ」

 細身とはいえ、男子だ。重い体に潰されないよう、私は精一杯耐えていた。横目で繭ちゃんを伺うと、小学生がするには不適切な、恍惚とした顔で兄の抱擁を受け入れていた。

 雷が、また鳴った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る