5
次の休日。降りしきる雨の中、私は見舞いに来ていた。あれから体調を持ち直した母は前よりも顔色がよく見えた。依然、意識は回復していないが、悪化もしていない。私は、母が危篤状態だったときにあったことをいくつか話した。病院でのこと、学校でのこと、家でのこと。嫌なことも多かったが、いいことも少なからずあった。母の表情がさっきよりも和らいだと見るのは、自分勝手だろうか。
こうして一人で話していると、自然と伊花さんのことが頭に浮かんだ。
先日、駅で見たあの光景。本当に父は伊花さんと不倫しているのだろうか。
父にそれとなく聞いてみても、はぐらかされるだけで、肝心なことは言ってくれない。それが答えなような気もしている。もし、その相手が、娘が仲良くしている相手だと知ったら父はどう思うだろう。そしてもし、それが母の耳に入ったら?
考えたくもないことだ。
そのとき――
「……と……う、ぁ」
くぐもった声が聞こえた。驚いて母に目を遣る。さっきと変わった様子はなく、意識も回復した様子はない。疲れが溜まっているせいかもしれない。幻聴でも聞いたのだろう。あるいは雨の音がそう聞こえただけか。
私は首を振って、病室の扉に手をかける。
そこで、また呼びかけられた気がした。
「とうか、無理してない?」
母を見る。母は薄目を開けていた。でも口は動いていなかったように思う。私は逡巡して、ナースコールを押す前に答えた。
「してないよ」
「たまには休んでもいいからね」
「ありがとう、まだ大丈夫。お母さんこそ体は大事にね」
返事はなくなった。目を閉じ、安らかな顔で眠っている。心電図は正常だ。点滴も緩やかに供給されている。私はナースコールを離して、待合室へと向かった。
伊花さんはいなかった。代わりに天祢と繭ちゃんがいた。先日とは逆だ。天祢は落ち込んだように肩を縮こめていた。その隣で所在なげにしていた繭ちゃんが私に気づいて、袖を引っ張って天祢に教えた。
「ああ、冬香」
疲れ切った声だった。目元が赤く、腫れぼったくなっているのは泣いていたからだろう。
「なにか、あったの」
天祢は力なく首を振った。
「もしかして……お母さんに何かあった?」
先日、元気に人の悪口を言っていた絹代さんを思い出す。自分で治る病気だと言っていた。あれから体調を崩したとは思えないが、万が一と言うこともあり得る。
「病気が悪化したとか……」
自分の声がなんだか弾んでいるように聞こえた。
「違うよ。母さんは別に、なんともない。元気だよ」
「そっか……」
今度はトーンが落ちる。まるで、そうなることを願っているかのようで、自分がとてつもなく醜い生き物になってしまったように思えた。
繭ちゃんから睨まれていた。私は顔を引き締め、天祢の隣に腰掛けた。ちょうど繭ちゃんは死角になる位置だ。先日からよく睨まれるが、理由は分からない。でも、褒められたことを思っていたわけじゃないので、どこか後ろめたい。
みそぎをするように聞く。
「ねえ、自分一人で抱え込まないでさ、何があったのか教えてよ」
救いを求めるような目が向けられた。天祢は言葉を迷わせることなく、
「父さんが再婚するんだ」
それだけ言って、また黙ってしまった。絹代さんはまだ天祢達と同じ姓のはずだ。と言うことは……
「離婚するの?」
天祢は一瞬、顔いっぱいに怒気を浮かべて、『院内ではお静かに』の張り紙を見て、声をなくした。ひどく悲しげな顔に見えた。遠くの方で雷が光った。窓に滴った雨が、稲光を砕いて乱反射していた。遅れて腹に響くような音がする。
「離婚は、するよ。でも母さんはそんなこと知らない。父さんが勝手に進めていることだ。再婚相手も、もう決まってるって。あの野郎、母さんが退院する前に全部終わらせるるつもりなんだ」
「でも、そんな、離婚なんて簡単にできるものなの? それに、親権とか……」
聞いていいものか迷ったが、そこが話の要な気がした。
「多分、父さんについて行くことになると思う。母さんは収入もないし、結構、精神も不安定だし……」
天祢は言いづらそうに顔を歪めた。
「だから、裁判になったら負けると思う。いくら父さんが浮気しているといっても、俺は学校に通えてないし、繭だって、きっと中学校に上がったら通えなくなるし、母さんがどれだけ嫌がったところで、最終的には離婚することになるんだよ。それで、俺と繭は、あいつと知らない女と一緒に……」
「わたしは……」
繭ちゃんは兄の袖を掴んだ。思えば彼女の声を初めて聞いた気がする。
「お兄ちゃんと一緒がいい」
「うん、俺もだよ」
ともに、しんに響くような切実な声だった。私は言葉に窮して、慈しみあう二人を見ていた。繭の視線が向く。既に見慣れた、鋭く、斬りかかってくるような目だ。
それに気づかない天祢は、この世の真理を見つめるような竦んだ声で、
「……なんで、好き同士で結婚したはずなのに、喧嘩とか、離婚とか、不倫とかするんだろうな。友達とか兄妹はずっとそのままでいられるのにさ」
そんなこと、私も知りたかった。
「私も繭ちゃんも、天祢から離れたりしないよ」
気休めにもならない言葉だ。それでも天祢は嬉しそうで、勢い余って、繭ちゃんだけではなく、私にまで抱きついてきた。
「俺もだよ。俺にとって、二人とも命と同じくくらい大事な人だから――」
天祢の体は温かい、というより熱いくらいだった。震えた声で続ける。
「だから、二人は俺から離れないでくれ」
細身とはいえ、男子だ。重い体に潰されないよう、私は精一杯耐えていた。横目で繭ちゃんを伺うと、小学生がするには不適切な、恍惚とした顔で兄の抱擁を受け入れていた。
雷が、また鳴った。
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