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私の母は記者をしています。といっても、どこかの会社に属しているわけではなく、一人で活動しているフリージャーナリストです。様々な会社から依頼を受けて、求められた記事を書くのが仕事です。
母はよく、記者の素養について話します。「正しいことを正しいまま行動して、胸を張れる人間だけが記者になれる」。この母の正義感が、私にとっての自慢です。どうしてジャーナリストになろうと思ったのか聞いたときも、「それが正しい人間である方法だから」としゃんと胸を張っていて、その姿は誰よりもかっこいいです。
母は自分の力だけで今の立場に立っています。これは昔、父から聞きました。女性というだけで蔑まれることも多い職業で、つらいことも多かったと思いますが、詳しくは分かりませんでした。母は弱音を吐かないから、大変なことは聞いても答えてくれません。そんな母の記事を読んでいると、自分の正しさを改めて考えさせられます。
私もいつか母を超える……いえ。母と同じような、正しくて強く、かっこいい立派なジャーナリストになりたいです!(笑顔)
*
こうして、仕事研究の課題はつつがなく終わった。先生は感心したようにしきりに頷いていたし、記者は珍しい仕事だったのか、クラスメイトは皆、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。遅れて拍手の音が鳴る。次に発表の子がどこか気まずそうな顔をしている。それを見ながら、きっといい成績がもらえるだろうと思う。
でも私は席に戻ってからもずっと、昨日のことを反芻し続けていた。素敵な花嫁になりたいという中学生らしい発表を聞きながら、中学生にらしくない悩みに考えを巡らせる。
昨夜、父は深夜になって帰ってきた。私がまだ起きているとは思わなかったらしく、分かりやすく狼狽えていた。
「お帰り、お父さん」
「あ、ああ。ただいま。まだ寝てなかったのか」
「うん、課題があってさ。仕事について調べるの」
嘘だった。課題は適当に終わらせて、本当は記事を書いていた。あのみすぼらしい、文章とも呼べない、文字の羅列を、少しでもマシにするための試行錯誤をしていた。といってもそれは、ボロ雑巾をただの雑巾に変えるくらいのもので、徒労とも言うべき行為だった。どれだけ努力したところで、サテン生地のハンカチにはならないのだ。
「そうか、大変なんだな」
「うん、でも終わったから大丈夫。もう寝るよ」
これも嘘。大丈夫なわけがない。今日も眠れない夜を過ごすだろう。〆切までもう何日も残されていない。先方からも急かすようなメールが届くようになった。
でも父はそんなことに気づくはずもない。
「そうか、おやすみ」
それだけ言って、自室へ身を翻した。その瞬間、においを嗅いだ。
「ねえ、お父さん」
言わずにはいられなかった。試さずにはいられなかった。
「最近、遅いよね。何かあるの?」
父は少しだけ考える間を置いて、
「仕事が忙しくてな。また出張もあるし、なかなか見舞いにも行けなくて悪いけど……分かってくれ」
嘘なのは、分かっていた。父の服から、髪から、体から、持ち主の終着をあらわすかのように香水の強いにおいが香っていた。普通なら気がつくはずだ。父はこの悪臭に鈍感になるほど長い間、この臭いを嗅ぎ続けていたのだろう。どこで? なぜ? 考え始めると胸のあたりが気持ち悪くなった。
「そっか、あんま無理しないようにね。おやすみ」
口早に言って、私は部屋にこもった。ベッドに身を預け、深く息を吐き出す。香水は髪に、体に、意識に、纏わり付いて落ちなかった。
眠れないまま、記事も書けず、ただベッドの中でにおいに穢された己が身を抱きしめて、夜を越えた。今もまだあの忌まわしいにおいは鼻に引っかかっている。
「ねえ、なんで適当に書いたの?」
浅い呼吸で眠気と闘っていると、突然、ひそひそ声でそう話しかけられた。前の席の鈴鹿さんが、肩越しに私を振り返っている。
「どうしたの、突然」
「だから、」
鈴鹿さんは繰り返した。今度は聴き取りやすいように、言葉を句切って。
「なんで、課題、適当に、やったの?」
「適当なんて……」
その先を遮るように、鈴鹿さんは目だけで前を示した。
いつの間にか、看護師についての発表に変わっていた。鈴鹿さんの言いたいことはなんとなく分かった。彼女の発表はお世辞にも上手とは言えないが、自分の夢を、その仕事を、その仕事に従事している親を、誇りに思っていることが伝わってくる〝いいもの〟だった。私にはあのひたむきさが足りなかったのだろうか。
私が黙ったからか、先生の目が厳しくなったからか、
「放課後、少し話そう」
と鈴鹿さんは前に向き直った。私には話すことなんてなかった。それよりも今は、早く帰って原稿を完成させなくてはならない。
でも断る前に、またこちらを振り返った鈴鹿にこう言われた。
「小学生のときの学級新聞、私は好きだったんだよ」
少し照れたような高揚した顔は、まるで憧れの野球選手を前にした少年のようだった。
それで、ようやく彼女を思い出した。
小学四年生のころ――まだ記者になれると信じて止まなかったころ――私は担任に直談判して、学級新聞係なるものを設立した。完全な自己満足と独断に多くの反対意見が出たが、中には母が記者であることを担保に信じてくれる子もいた。まるで、憧れの野球選手を前にした少年のような顔で。
「先生が認めてるんだし、お母さんがすごい記者なんだ。ぜったい上手くいくよ!」
その筆頭は、確かに鈴鹿という苗字だったが――
「だいぶ変わったよね。昔はもっとやんちゃしてたのに」
西日で赤く染まった教室で、鈴鹿さんはずいぶんと長くなった髪を梳いてそっぽを向いた。私の記憶の中では、彼女は少年のような少女だった。それが今では、クラスで一番女性らしい少女になっている。
「そりゃあ、中学生になったんだし変わるよ。あんたと同じクラスだったの、小学四年が最後なんだから」
それでも、ぶっきらぼうな言い草は変わらない。ただ、彼女はもう日焼けすることも、大口を開けて笑うことも、まして男子と喧嘩することもないだろう。化粧を覚え、しな作りを覚え、香水の振り方を覚えた彼女にとって、そんなもの天敵でしかない。
それを改めて思うと、別人を前にしているような感じがいっそう強くなった。
「あんた……あなたは変わらないね」
むくれたような表情を見て、彼女もまた、私と同じ寂しさを感じているのではないかと思った。私が鈴鹿さんに変わらないことを期待していたように、鈴鹿さんも私に変わることを期待していたのなら、寂しさは双方にあるのだ。
……不毛だ。私たちは違う道を歩んでいる。私は手を振って話を切り、本題に入る。
「それで、なんで適当だって?」
鈴鹿さんも切り替えるように、真面目な顔になってまくし立てた。
「小学生のときにも仕事インタビューしたでしょ? そのときあんた……あなたは、母さんみたいになるとは言ってなかった。お母さんを超えるって言ってたんだよ。だから、あれは本心じゃないし、適当にやったんだなって思った」
「あんたでいいよ」
「こういうところは直したいから、普段から意識してるんだ」
恥ずかしそうに言う姿を見て合点がいた。この子は恋でもしているのだろう。
「……それで、なんで適当にやったの?」
「それだけの根拠で適当なんて……乱暴な決めつけだよ。小学生のころは現実が見えてなかったんだ。適当にやったわけじゃない。お母さんを超えることはできないって悟ったの。中学生になったんだし、変わるんでしょ」
「でも……じゃあどうして言い直したの」
「緊張していたんだ」
「うそ」
「本当だよ」
「ねえ、どうして?」
ずけずけと踏み込んでくるところは変わらない。学級新聞を作っているときも、彼女にはそういうところがあった。正直苦手だった。人と壁を作らないといえば聞こえはいいが、デリカシーがなく、浅慮で、そしてなにより。
「もしかして――」
なにより、こういう子は無自覚に核心を突いてくる。
「もう、記者になりたくないの?」
ほらきた。思わず言葉に詰まってしまう。それは自白と同じだった。
「やっぱり……」
鈴鹿さんはまるで自分の身が切られているような顔をした。
「私もさ……分かるよ。すごく。自分の力じゃどうにもならないことって、やっぱりあるじゃん。叶わない夢とか……恋、とか。だから話してよ。なんで記者を諦めたのか。きっと少しは気も晴れると思うよ」
鈴鹿さんの目は、同情でも憐憫でもなかった。寄せられた眉と、強い目。言うなれば、激励だ。母が記者を辞めざるを得なくなったとき、たとえば病気に臥せみるみる衰えていく母を前にしたとき、一番のファンである私もきっと同じ顔をしていた。
つまり彼女は、私の――
「私、あんたの記事が好きだった。小学生のころからずっと、ファンだったんだ!」
照れくさそうに、髪をもてあそびながらそう言った。
「だから教えてよ」
私にはこれに応える義務があるのだろう。母のことを納得できていない私には。
せめて才能によって死ぬのなら良かった。たとえば追っていた事件の犯人に殺されて、記者人生に幕を降ろすなら、きっと納得はできただろう。でも今の母は舞台にすら立っていない。ただ場外で、複雑な名前の病気によって緩やかに死なされるのを待っているだけだ。それには納得できない。
鈴鹿さんの目に、私は、さらにひどく映るはずだ。わけも話さず、こそこそと舞台から降りたのだから。それなら、理由くらいは話して、すべてのしがらみを断ち切って、堂々と降りるべきだ。
「ねえ、どうして記者を諦めるの?」
私は大きく息を吐き出して、言った。
「私のお父さん、不倫してるんだ。もうずっと前から。常習的に」
鈴鹿さんは言葉を失った。
「お母さんも初めは喧嘩してたんだ。でも止まらなくて、今度はお母さんが病気になっちゃった。初めはすぐに治ると思ってたんだ。本当に最初の方は元気そうだったし、お父さんの愚痴も前と変わらない調子で言ってたから、軽く考えてた。仕事もこなしてたしね。でもだんだん衰弱していって、今では口も利けなくなっちゃった。お父さんは、今も変わらず不倫してる」
昨日のことが頭によぎった。自分の呼吸が浅くなるのを感じる。一人で話していると泣いてしまいそうだった。
「それで、私が諦めた理由だけど、なんでだと思う?」
「え……」
質問を振られると思っていなかったのだろう。少し迷ってから、
「そんなの、分からないよ。それより不倫って――」
遮るように言う。
「じゃあ、お母さんは病室で何の仕事をしてたと思う?」
今度は答えが返ってきた。
「……そりゃあ、記事を書いていたんでしょ。フリージャーナリストなんだから」
「うん、その通り。それが問題だったんだ。病気が発覚してから意識を失うまで、私のお母さん、どんな記事を書いてたと思う?」
「……どんな記事を書いてたの」
私はまた深呼吸をした。
「不倫された女のルポルタージュだよ。他にも、離婚裁判に強い弁護士のエッセイの代筆とか、不倫によって引き起こされた事件の記事とか」
鈴鹿さんははっきりと嫌な顔をした。素直な子だと思った。
「そんなの――」
「うん、おかしいよね。お母さんはお父さんの不倫に本当に傷ついていたはずなのに。もうあんまりにも仕事が早くて、すごいを通り越して怖かったよ。聞いたら、他にも女性誌から依頼されて、いろいろ書いていたって。お母さんはこう言ってたよ。『記者は経験が命だから、全部を仕事にしないとフリーでは食っていけない』って。私にはできないよ、そんなこと。だから諦めたんだ。
……いや、諦めたかった」
妙に熱っぽい吐息が、膨らんだ喉を通っていった。
「私、お母さんの名前を使って、仕事を一つ勝手に取ったんだ。『縁ノ淵海岸』ってところの記事を書くの。詐欺だよ。それに、多分失敗すると思う。私じゃ、お母さんみたいな記事は書けないし、そもそも〆切に間に合うかどうか……。だからね、そうしたら私、死ぬつもりなんだ」
鈴鹿さんは目を瞠った。
「そんな……」
初めて口にしたが、これは最初から決めていたことだった。上手くいかなかったら死んでやると。どうせこのまま生きていたって、もう何ヶ月後かには死ぬ母を超えられない。だったらいっそのこと、母の名と私を、あの死んだ海で葬ってやろうと思ったのだ。私の人生に、どうせ夜明けなんてこない。そのために必要な道具はすでに揃えてあった。
「死ぬなんて言わないでよ。それに――」
声を震わせる鈴鹿さんの、迷いのない視線に胸ぐらを掴まれた。
「理由って本当にそれだけ?」
この子は本当に、どこまでも踏み込んでくる。
「詐欺紛いなことをしているのも、父親が不倫しているのも、母親がそれを仕事にしていることへの劣等感も、どれも人生を投げ捨てるほどの理由とは思えないけど。記者を諦めるっていうだけならまだしもね。ねえ、本当の理由は?」
もう、すべて言ってしまおうと思った。不安も、恐怖も、焦りも、葛藤も、劣等感も、すべて。なぜ記者を諦めたのか。なぜ死にたいと思うようになったのか。悩みでこじ開けられた目で見る現状が、一人の眠れない夜がどれだけつらいか、少しでも分かってほしかった。
私が話している間、鈴鹿さんは表情すら変えず、じっと聞いてくれていた。誰かに話してみると、こんなことでと恥じる気持ちがあった。同じくらい、どうせ分かってもらえないという拗ねた気持ちもあった。
でも鈴鹿さんは、話し終えた私に微笑みかけてくれた。
「あなたはお母さんとは違うよ」
優しい声だった。
「超える必要も、比べる必要もない。親族なんて、冷たい言い方をすれば、ただ血の繋がっただけの他人だ。お母さんのことだって、一つの指標だと思えばいい。あなたは過去のあなたとだけ比べていればいいんだ。そんな、お母さんの才能に呪われることなんてない――だから、お願い。死なないで」
それは、ファンとしての言葉ではなかったように思う。ただ、ずっと私が欲していた言葉だった。善性に充てられたせいか、涙腺が緩んだ。一筋、二筋、流れ出すとダメだった。涙はとめどなくあふれ出てきて、立っていられなかった。鈴鹿さんは屈み込んだ私の背を、何も言わずさすってくれた。
昔、母にそうされるのが好きだったのを思い出した。
「もう、死ぬなんて言わない。約束するよ」
帰り道、私は鈴鹿に宣言した。月の綺麗な夜だった。
「でも、死ぬ気でやるよ。それで私は、すごい記者になる。そのための一発目の仕事だ」
「私も手伝えることがあったら協力するよ。なんでも言ってね」
鈴鹿は笑顔を一転させ、神妙な顔つきになった。
「……ねえ、お父さんは今も不倫してるって言ってたよね。相手は誰か知ってるの?」
突然の話題だった。
「なんで?」
「いや、なんとなく。やっぱり浮気は良くないよね。でもさ。お父さんを庇うわけじゃないけど……」
歯切れ悪く、その先を続ける。
「でも、好きになったらしょうがないんだよ。誰が悪いとか、そういうのじゃなくてさ。しょうがないんだ」
紅潮した頬で、それは自分に言い聞かせているようだった。これはもう少し後に知ったことだが、鈴鹿は塾の先生と不倫関係にあるらしかった。月に叢雲がかかってくる。少し風も出てきた。まだまだ夏は盛りというのに、妙に肌寒い夜だった。
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