3
次の休日を待って、朝一に病院を訪れた。受付で名前を告げると、まだ面会謝絶だと回答をもらった。電話で事前に聞いていたとおり、容態の悪化した患者の大半がそうなるように、母は集中治療室に入れられたらしい。珍しく父も来ていて、母のいなくなった病室で、難しい顔の医師と話をしていた。
でも、そう長くはなかった。五分ほどですぐに切り上げると、
「冬香、あまり無理するなよ」
私にそう声をかけて帰って行った。スーツを着ていたから、恐らく仕事だろう。大病の妻以上に、優先されるべきなのだろうかと子どもっぽいことを思わなくもない。
私は誰もいなくなった病室にしばらく留まっていたが、看護師にそれとなく邪魔だと諭され、待合室に向かった。私がいることに気づいていないのか、いつまでも父の噂話をしている看護師が気に入らなくて、聞こえるように舌打ちをくれてやった。看護師のばつが悪そうな顔を見ると、さらに苛立ちが募った。
待合室には、天祢も繭ちゃんもいなかった。伊花さんが一人、真っ白な朝日を浴びながら本を読んでいる。彼女も小説を読むんだなと、何だか意外だった。もし私が書いたものを読んでもらったら、どんな感想がもらえるだろうとなんとなく思う。
私に気がついた伊花さんは本を閉じて、手を振った。
「こんにちは、冬香ちゃん。今日は早いんだね」
そういえば、いつもは午後になってから来るから、天祢も繭ちゃんもいないのは当然かもしれない。彼らは今何をしているのだろう。
「ええ、少し……」
「こっちおいで」
私は促されるまま、伊花さんの隣に座った。
まだ昼前だからか、待合室には人が多かった。片耳にイヤホンをさして眠っている大学生、駄々をこねる子どもに手を焼く女性、いかめしい顔を寄せ合っている三人の中年男性、自販機でコーヒーを買っている老人。私たちだけの世界だと思っていた小部屋は、実はいろいろな人生を内包していたようだ。小さいころ、せっかく作った秘密基地を近所の上級生に勝手に使われたときのことを思い出した。
「人が、多いですね」
お門違いにも恨みがましい声になってしまう。伊花さんはそれに気づかなかったようで、
「そうだね。でもたまにこうして賑やかだといいよね。みんながみんな悲しい顔してたらつらいし」
と朗らかに言った。私は内心、首をかしげていた。自分よりも悲嘆の底でもがいている他人がいるとき、人は初めて安心できるのではないのか。自分が一番底だと分かったときの不安には底がない。
別に伊花さんと意見を闘わせる気はなかったので何も言わずいた。
少し続いた沈黙を、伊花さんが破った。
「それで、冬香ちゃんはどうしてそんなに悲しい顔をしてるのかな?」
さすが。鋭い。
「そんなにひどい顔してますか?」
「まあまあ、かな」
伊花さん眉尻を下げて笑った。
「で。どうしたの、話してごらん」
「母が、悪化して。すぐ死ぬ感じでは、ないと思うんですけど……」
「そっか……早く良くなるといいね」
頭を撫でられる。
「心配だろうけど、あまり思い詰めたらダメだよ」
あやすように言われて、気恥ずかしくなった。すぐにその手から逃れる。伊花さんは困ったように笑って、「ごめんね」また読書に戻った。
昔、母も私をよく撫でた。褒めるとき、慰めるとき、叱るとき。伊花さんの手つきは母のそれとよく似ていて、少し胸が痛くなった。
気を紛らわせるため、課題を取り出した。天祢たちを待つつもりだった。
「へえ、仕事について調べる課題って、今でもやるんだね」
本から目だけを上げて伊花さんが言った。
「伊花さんもやったことあるんですか」
「うん。小中高大と、全部の学校で。やっぱり仕事と人生は分けられないものだからね。課題としてはポピュラーなんじゃない」
そうだ。ずっとインタビュー相手を母や父で考えていたけど、身近な大人はここにもいた。
だからつい、聞いてしまった。
「伊花さんは、どんな仕事をしているんですか?」
言ってすぐにしまったと思った。触れられたくない話題だったかもしれない。
案の定、少し言葉を詰まらせた後、「儲からない仕事だよ」と答えが返ってきた。
「私じゃなくて、お父さんに聞いてみたら。それか友達が何書いてるかとか……」
「学校に、友達はいません」
また伊花さんは言葉を詰まらせてしまった。気まずい沈黙が流れる。私は二の句を継ごうとしたが、その前に天祢が入ってきた。
「お、冬香。ちょうど良かった」
気まずさから救ってくれた無二の友人は見るからに上機嫌で、その後ろについている繭ちゃんすら、普段の無表情をやめて口許を緩めていた。
「ちょっと来いよ。母さんがお前に会いたいってさ」
「え……」
「母さんに冬香の話したらさ、一回会ってみたいって。俺に友達ができるなんて思ってもなかったみたいでさ――」
それからも色々と話していたようだが、私の耳には入ってこなかった。天祢の母に会ったことはない。でも、看護師達が噂話をしているので、あまりいい人でないことは知っていた。文句ばかりで、癇癪持ちで、自分勝手。それが看護師の話を総合した印象だった。
「伊花さん。冬香のこと、借りていきますね」
逃げ道を防ぐように言われた。伊花さんは逡巡して、頷いた。
「いいよ。じゃあ私はもう帰るね。またね三人とも」
手を振って伊花さんを見送る。
「天祢、今日は朝から来てたんだ」
そう話を逸らそうとしても、
「別に。いつも朝からいるよ。学校通ってなくて、毎日暇だからな」
と気を悪くしてしまって、よけいに断りづらくなった。それでも何とかいかなくて済む方法を考えていたが、焦れた天祢に、
「いこうぜ」
腕を掴まれた。痛いくらい握りこまれ、引き摺るようにして連れていかれる。普段なら真っ先に聞いてくれる天祢が、母の容態を気にしてくれなかったことに気づいたのは、天祢の母――絹代さんの病室についてからだった。
表札に『馬場絹代』とかかっているのを見て、天祢や繭ちゃんとも、まだ親子関係であることを知る。二人の家庭事情が良くないことを知っているが、どう良くないのかは知らない。でも両親が離婚してるわけではないようだ。
天祢は私の腕を掴んだまま、ノックもなく部屋に入った。
「連れてきたよ、母さん」
「遅い」
朗らかな天祢の声に対して、厳しい声だった。
声の主――絹代さんは、痩身で、どこか精力的な雰囲気のある人だった。パーマのあてられた茶髪のせいかもしれないし、つり上がった眉のせいかもしれない。そしてそれ以上に、口が呼吸器で塞がれていないことや、心電計の管に繋がれていないことが彼女を元気に見せていた。
絹代さんは値踏みするような視線で私を見てから、厳しい口調とは一転、優しい声で、天祢に微笑みかけた。
「この子が、あんたの友達か」
だが私を見る目はやはり冷徹で、どこか爬虫類じみていた。
「いつも天祢が迷惑かけてるね。繭も手がかかるだろう」
「いえ、そんな……」
「そう? それならいいんだけど」
ただの挨拶のはずなのに、軽いやり取りのはずなのに、少しも気が抜けなかった。緊張とは少し違う。恐怖? いや。これは、警戒だ。
「こいつ冬香って言うんだけど、冬香のお母さんもこの病院に入院しているんだ。それで仲良くなって……」
紹介している天祢の声に被せるように、
「そう。それは――」
そこで、絹代さんの顔が歪んだように見えた。
「かわいそうな子だね」
その表情は、中学生が、あるいは小学生が人の失敗を嗤うときとよく似ていた。
「あたしはもうすぐ治るけど、冬香のお母さんは?」
「母は……」
その先の言葉に詰まった。絹代さんの頬がまた――さっきより醜く歪む。
「お母さんもかわいそうだね。こんな病院に長期入院なんて。ここの看護師って何もかも下手でしょ? 注射は痛いし、検診の手際も悪いし。この前なんて、あんまりにもとろくさいから怒鳴りつけてやったよ」
その後も、絹代さんは止まらなかった。まるで、でかい口の化け物が喋っているように見えた。誰かの悪口を言っていないと死んでしまうのではないかと思うほどで、看護師の愚痴に始まり、政治批判まで展開し、やがてその矛先は兄妹へと向かった。
天祢には厳しい目を向け、
「だいたいねえ、お前があたしを家で世話してくれたら、こんな汚い病院に入る必要なんてなかったんだ。まったく親不孝な子だね。え、なんだよ。入院した方がいいって? はっ、そんなの、あのヤブが勝手に言っただけのことだろう。なに信じてるんだ、あんたは本当にバカだね」
繭には噛んで含めるように、
「あんたも。いつまでそうやって天祢の後ろに隠れているつもりだい。あんたがしっかりしてれば、天祢もあたしの世話をできるんだよ。小学生なんてただでさえ手がかかるんだから、せめてあたしの邪魔はしないでくれよ。繭はお利口だから、あたしの言うこと分かるだろう?」
私にも目を向けて、
「あんたも、なに自分だけが不幸って顔してるんだ。不幸比べなんてくだらないよ。冬香よりも病気にかかってるお母さんの方が辛いし、意識のない冬香のお母さんよりもずっと眠れもしないあたしの方が辛いんだよ。分かってるのかい? あんたなんか少しもかわいそうじゃない。天祢や繭のほうがよっぽどかわいそうだよ」
しまいには金切り声になって、
「三人とも、もう出ていきな。二度と顔を見せるんじゃないよ!」
なぜ突然怒られたのか、わけの分からないまま私たちは病室を追い出された。
「また来るよ、母さん」
天祢は出て行く直前にそういった。閉じきった扉に、ガンと鈍い音が聞こえた。何か投げられたのだろう。
待合室に戻る道すがら、うんざりした顔の看護師とすれ違った。絹代さんの病室に入っていく。すぐに金切り声が聞こえて、私は正面に目を戻した。
歩きながら、いつになく笑顔のぎこちない天祢は言った。
「冬香、ごめんな。うちの母さんが変なこと言って。冬香だってつらいのにな」
天祢は、でも、と続けた。
「ずっと話し相手がいなかったから寂しいんだと思うんだ。我慢してやってよ」
あれが会話なら、この世から口喧嘩はなくなる。
「……ねえ、お母さんは、いつもあんな感じなの?」
嫌みっぽくなってしまったが、聞かずにはいられなかった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、ただ二人が心配だった。
「あんな感じって?」
天祢は惚ける風でもなくそう言った。私は口を噤んだ。ふと、繭が私を睨みつけているのに気づいた。目を逸らしてもずっと視線は絡みついてくる。なぜかと考えているうちに待合室に到着する。
いつもならもう少し雑談に興じる。でも、どす黒い感情は遅れてやってくる。今日はもう、ここにいたくなかった。荷物を纏めて帰り支度を整えると、天祢は首をかしげた。
「もう帰る? このあと何かあるのか」
「うん……ちょっと、課題が」
「……そっか」
天祢はどこか当てつけるような口調になって、
「俺は学校とか通ってないから分かんないけど、大変なんだな」
うん、大変だよ。
「そんなことないよ。天祢の方がずっと大変でしょ、色々」
お母さんもあんな風だし。
天祢は私の顔から目を逸らし、繭の頭を撫でた。
「確かに大変だったけど、でも母さんも元気になったから良かったよ。それに、母さん、もうすぐ退院できそうなんだ。ずっと喧嘩してた父さんとも仲直りできたみたいだし」
離婚はしていないが、離婚間近だったのだろう。事情は何も知らないが、絹代さんにも少なからず原因があったのだろうと思った。
「な、繭。もうすぐ家族四人で過ごせるんだ。嬉しいな」
繭ちゃんが一瞬、瞳の奥にどろどろとした感情を写したのに気づいた。普段無口だからか、その瞳は雄弁だった。でも、兄である天祢は気づいていない。
「じゃあ、私帰るから。またね二人とも」
このままここにいると、天祢にも嫌な感情を抱いてしまいそうだった。
「あ、そういえばさ」
扉を閉める直前、天祢が言った。
「冬香のお母さんは? 体調どう?」
ああ、最悪のタイミングだ。でもここで友達の喜びに水は差せなかった。私は笑って言った。
「うん、変わらないよ。何も」
天祢は弾けるような笑顔で返した。
「それなら良かったな!」
悪いことは重なるものだ。
病院を出た私は、ふらふらと電車に乗った。気分は重く、まぶたはもっと重かった。誘われるように目を閉じて、次に開いたときには目的の駅に着いていた。慌てて降りて、落ち着いてから改札を抜けて、少し歩いたところで、父を見かけた。声をかけようとした瞬間、隣から女が現れた。
その女は、伊花さんだった。
私は走って、家に帰った。胸の奥が苦しい。泥でも詰まったみたいな吐き気がする。忘れようとしても、その瞬間の映像は脳髄にしがみついて離れてくれなかった。何をやっても手につかず、夜が更けるまで、リビングで鬱々と過ごした。
父は今夜もまだ帰らない。
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