第五話 性善説 〈「あなたは何をもってご自身の存在を正当となさいますか?」 ――アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』〉

 真っ白い天井、透明な空気、汚れ一つない壁、清潔なにおい、リノリウムの床。

 潔癖症な四角い箱に閉じ込められた母は、体から何本もの管をはやし、重厚で精密な機械に接続されていた。

「お母さん、調子はどう?」

 私は無理やり笑顔を作って、白色の王様みたいなベッドに寝転がった母を覗き込んだ。鼻や口からも管はとびだしており、正直、見ていられなかった。だから母がうつろなまなざしで微笑んでくれたときは安心した。これで目を逸らしてもいいと思った。

「そう」

 逸らした先ではひときわ大きな機械が、モニターに緑色の波形を表示している。心拍数は86。中学校の理科で、正常値は60~100の間だと習った。ピッ、ピッ、ピッ、という電子音もいつも通りだ。

 ベッドの横にパイプ椅子を組み立てて、腰を落ち着ける。母はわずかに手を動かした。痩せ細って枯れ木みたいな手を軽く握ってやる。ほんの一年前までは温かく柔らかかったが、今では乾燥していて冷たく、筋張っていた。

 私は何も喋らず、電気もつけず、ただ座って、だんだんと病室に夜の気配が忍び入ってくるのを感じながら、変わらず心電計の電子音を聞き続けていた。母が死んでしまったらこの音は消えるのだと、ぼんやり思った。まるで母の命が、電子音一つに左右されているみたいで不気味だった。耳障りだと思ったせいで途絶えてしまったらどうしようと半ば本気で思い、電子音を好きになれるように、さらに耳を澄ませてみたりもした。

 母は癌だった。見つかったときにはすでに全身に転移しており、手の施しようはなかった。いくつもの管を体に通されたが、病気がよくなるわけではなかった。「明日死ぬ命を一ヶ月間に引き延ばす程度のものです」医師はそう言っていた。歯に衣着せない言い方を選んでくれただけ優しいのだろう。

 入院したてのころ、まだ口を塞がれていなかった母は、自分の境遇に深刻そうな表情一つ見せず、医師から聞いたという装置の効能を私に説明した。これは呼吸を助けてくれる装置、これは栄養を送ってくれる装置、これは心拍数を測る装置で、これは……。

 絡みつく何本もの管は母を生かすものだと知っていたが、日に日に痩せ衰え、ついにはほとんど寝たきりになってしまった母を見ていると、本当は病気なんて嘘で、その管から栄養を吸い取られているのではないかと不安になった。

 私は頭を振って、母の手を布団の中に戻し、

「そろそろ時間だから帰るね。また来るから」

 そう声をかけてパイプ椅子を片付けた。母は何か言いたげに荒い呼吸をしていたが、何も聞き取れなかった。「お父さんとは仲良くしてるの?」「学校は楽しい?」「お父さんはいつ見舞いに来るの?」「最近、すぐに帰っちゃうけど何かあるの?」母が言いたそうなことはいくつも頭に浮かぶけれど、答え合わせをしようとは思わなかった。もう一度「じゃあね」とだけ言って、すぐに目を逸らして、病室を出る。扉が閉まりきってから、溜息を吐き出した。


 入院したてのころ、父は足繁く見舞いに通っていた。入院初日は、これから自分の妻が世話になるからと方々に挨拶回りをして、さらに月に何度かの職員への差し入れだって欠かさなかった。それが良くなかった。父は若作りで、娘の私から見てもかっこよく見えるときがある。さらに気配り上手で愛妻家という評判まで流れてしまっては、看護師連中が目を光らせても不思議ではない。ほとんど病室に来なくなった今でも、若い看護師の何人かは、不躾な質問――「お父さん、最近見ないね」(稀に「千蔭さん」と名前で呼ぶ猛者もいる)――を私にぶつけてくる。

 今日も病室を出た瞬間に若い看護師(猛者)からそう声をかけられて、うっかりするとひどい暴言を吐いてしまいそうだった。両親は大恋愛の末に結婚した、恋人のような夫婦のはずだった。でも、彼女たちの質問はそういったすべてを過去にしてしまう。それが許せなかった。

 自分を落ち着かせながら、質問してきた看護師を無視して、すでに人のはけた待合室に入った。部屋には一人だけ、逆立たせたような髪型をした少年が、背もたれに体重を預けてだらしなく座っていた。心がふっと緩むのを感じた。

天祢あまね

 少年は振り返った。ナイフでひいた傷のような細い一重の目は、睨んでいるように見えた。最初は怖かったが、彼の心根が優しいことは知れている。

冬香とうか、お疲れ。お母さんの調子は?」

 首をふるにとどめた。病状を口にしたら、もっとひどくなるような気がした。

「そっか。お互い大変だな」

 天祢の母親も入院しているが、私の母と病状は比べものにならない。間違いなく治る病気なのだ。でも、彼の家庭事情は悲惨だった。天祢は何も教えてくれないけれど、彼が学校にも通えていないことから、その悲劇が私の想像の埒外にあることくらいは想像できた。

まゆちゃんは?」

伊花いばなさんとジュース買いに行った」

 繭とは天祢の妹のことだった。伊花さんは、知り合いだ。

「そういえば前の小説、読んだぞ。難しくて、言っている意味はよくわかんなかったけどたぶん面白かったんだと思う」

 彼はスクールバックからクリアファイルを取り出した。そのスクールバックもクリアファイルも私があげたものだった。どちらもあげてからそう時間は経っていないが、ずいぶん汚れている。クリアファイルに至っては底が抜けてボロボロだ。物を大切にしていないわけではないのだと思う。ただ、扱いが雑なだけで。

 それとも、彼の家庭事情と関係あるのかもしれないと見るのは、穿ち過ぎだろうか。

「やっぱり冬香は上手いな。俺にはこういうのできないから、すごいと思う」

 彼はクリアファイルに挟まれた数十枚の紙束を取り出した。『無題』という手書きのタイトルが偏屈そうに紙の端っこで歪んでいる。

「そうかな」

 中学一年生が書いたにしては、まあ読める程度の物だ。正直、つまらないと思う。

 しかし天祢は興奮を抑えるように、

「冬香はよく私なんかって言うけど、小説家になればいいのにな。だってこんなにすごいものが書けるんだぜ」

「無理だよ、そんなの。小説家なんて……」

「なれるって。そのときは俺がファンの第一号だからな!」

「……ありがと」

 別に私は、小説家になりたいわけではなかった。現実から目を背けたいから書くようになっただけで、天祢の期待するような立派な志があるわけでもない。

「そうだ、小説家になれたら、そのときは俺たちの話も書いてくれよ。俺と、繭と、冬香の話」

 天祢はひとりで盛り上がって、そんなことを言った。それこそ小説じみた話だった。

「なれたらね」

「お前ならなれるって。な、約束」

 差し出された小指に、私は少しだけ迷って自分の指を絡ませた。こんなにも手軽な呪いもない。これで私はこの先、小説を書き続けようと、筆を折ろうと、彼のことを思い出し続けるのだ。

 そのとき待合室の扉が開いた。繭ちゃんと伊花さんが戻ってきたのだ。私は慌てて指を離した。

「伊花さん、ありがとうございます」

 天祢はその場で立って、軽く頭を下げた。

「天祢くんは本当に良かったの?」

「俺は、別に……」

「お兄ちゃんだね」

 伊花さんは慈しむように笑って、繭ちゃんの頭を撫でた。繭ちゃんは少しだけ身を引いて、手に持ったジュースの缶を見て、しぶしぶその手を受け入れていた。小学五年生と聞いているが、それよりも幼いようにも、年かさのようにも見える、不思議な少女だった。

「冬香ちゃんもこんばんは。お母さんの調子はどう?」

 伊花さんの目が私へ移ると、繭ちゃんは小動物が逃げ惑うみたいに天祢の背中へ移動した。兄の陰が、彼女の定位置だった。

「だいぶ悪いみたいで。もう何日も、声すら聞けてないですね」

「そっか……」

「まあ、悲観していてもしょうがないんですけどね。私がうじうじしても、良くならないですし!」

 気を遣ったつもりだったが、逆効果だった。伊花さんはますます悲しげな目をして、

「つらかったら、そう言っていいんだよ。話ならいくらでも聞くから」

 この人になら何でも話せると思わせてくれる、温みある優しい声だった。彼女には他の大人にはない安心感があった。

 母と同じ年齢だから、そう思うのかもしれない。

「伊花さんは、もう会えましたか? 友達に」

「ううん」

 返答はそれだけだった。だからこの話はそれで終わった。

 彼女は、入院している友達を見舞うために訪れているらしい。が、病室には一度も行けていないそうだ。理由を聞いても、「ちょっと、昔に色々ね」とはぐらかされるだけで、詳しくは教えてもらえない。私や天祢とは違えど、問題が根深いのだろう。そこに突っ込んでいけるほど、私は常識知らずじゃないし、野暮じゃない。

 こうして四人で集まるようになって、そう長くない。劇的な出会いをしたわけでもない。いつも顔を合わせるから、話すようになっただけだ。

 でも、この四人でいると妙に心が落ち着いた。

 それが、母が死に目にあるという身空の私ですら哀れむことができる兄妹と、母と重ねられるくらいの年齢と見た目をした女性だからだということは分かっていた。私は、私よりもかわいそうな人間を見つけて哀れんで、母の代わりを見つけて甘えているだけだ。分かっている。こんなのは正しくない。

 それでも、母の病気によって得られた、週に一、二回のこの時間が何よりも愛おしく、大切だった。

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