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 (扉を開ける)

 (女、店内を見回す)

 女「へえ、雰囲気いい店だね」

 男「大衆居酒屋にしようかと思ったんですけど、先輩は静かな方が好きかなって」

 女「別に、千蔭くんの選んだ場所ならどこでもいいよ」

 (男、黙って視線を向ける)

 女「……なに?」

 男「いえ、なんか……先輩、変わりましたね」

 女「あ、分かる? 昨日美容院行ってきたんだ。髪も染めようと思ったんだけど、千蔭くんはこのまま黒い方が好き?」

 男「そういうところですよ」

 女「なにが?」

 男「変わったところです。なんだか、すごい積極的というか……」

 (両者、気まずそうに沈黙)

 男「……あの、先輩」

 女「……そういうのは気づいていても言わないのがスマートだよ」

 男「え、あ、すみません」

 女「別に怒ってはないんだけど」

 男「はい」

 女「本当だよ」

 男「はい」

 女「本当だってば……心境の変化っていうか、千蔭くんにあんな風に告白してもらってるのに、こっちは今まで通りってわけにはいかないな、と思って」

 (男、顔を緩める)

 女「なに、そんなニヤついて」

 男「いえ、なんでもないです」

 女「うそ」

 男「本当ですよ」

 (女、男をにらみつける)

 男「(ニヤついたまま)怖い顔しないでくださいよ。それより、先頼んじゃいましょう。オススメはクリームパスタですって。ワインも飲めるんですね。先輩は飲みます?」

 女「(眉根を解く)そうだね。たまには飲もうかな。料理は任せるよ。千蔭くんが食べたいものを頼んで」

 男「分かりました。あ、今日は僕が奢るので、好きなだけ飲んでください」

 女「え、悪いよ」

 男「いいんですよ。先輩の快気祝いなんですから」

 女「そう? じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 男「そうしてください。あと酔い潰れたときのために、先輩の家教えてもらえますか」

 女「ああ、うん。(スマートフォンを触りながら)メッセージ送っとくよ。でも千蔭くんこそ、慣れてないんだったら無茶な飲み方したらダメだよ」

 男「大丈夫ですよ。僕、こう見えても酒は強いんですから」

 女「頼もしいね」

 男「先に飲み物だけ頼んじゃいましょうか」

 (店員に注文を通す。どちらもウィスキー。二人で談笑)

 (盛り上がり始めたところに店員が飲み物を持ってくる)

 男「ありがとうございます。さて、じゃあ……ってなに先に飲んでるんですか」

 女「(驚いたようにグラスから口を離して)え、ダメなの?」

 男「乾杯しましょうよ。せっかくの快気祝いなんですから」

 女「えー、別にいいよ。乾杯しなくてもお酒は美味しいでしょ?」

 男「いや、分かりますけど。僕も同じ考えでしたし。でもいざ祝い事のときに乾杯しないと据わりが悪いです」

 女「分かったよ。じゃあ(少し間を置いて)私たちの出会いに、乾杯」

 (グラスを合わせる)

 (長い沈黙)

 女「(頬を赤くして)ごめん、調子乗った」

 男「……別に、責めてないですよ。むしろ嬉しいです」

 女「恥ずかしいからやめてよ(酒を一気に呷って)……少し暑くなってきちゃった。もう九月になったのに、残暑も厳しいよね」

 (女、グラスを置いてシャツの腕を捲る)

 (男、目を瞠る)

 男「先輩、それ、いいんですか」

 女「うん、もういいんだ。それとも、千蔭くんは汚いと思う? それなら隠すけど」

 男「(嬉しそうに首を振って、女の手首に触れる)全然! 汚くなんかないです!」

 女「(面食らったように)そう。ありがと」

 (店員がお通しを遅れて持ってくる)

 (男、慌てて手を離す。いくつか料理を頼む)

 (店員、一礼して下がっていく)

 男「(忙しなく飲んでいたグラスを止めて)あ、じゃあ、少し涼しくなるような話しますよ。怖い話」

 女「へえ、聞きたいな」

 男「僕らにも関係ある話ですよ。隅野の見た幽霊についての話です」

 女「あれは作り話だったんでしょ?(不思議そうな顔をする)」

 男「実は違ったかもしれないんですよ。あのあと警察がトンネルの内部も調べたところ瓦礫の奥から、女性の遺体が発見されたそうです。椿さんから聞きました」

 (女、目を見開く)

 女「でも、事故があったときは男性しかいなかったんだよね。それにどうやって瓦礫の奥に死体なんて……」

 男「事故の後に死体が運ばれたと考えられているそうです。あるいは、女性が自殺のために中に入り込んだか。いずれにせよ、隅野の見た幽霊というのはあながち嘘じゃなかったかもしれないという話です」

 (二人は沈黙)

 (そこに店員が怪訝な顔で料理を運んでくる)

 女「(店員が去って行くのを待ってから)今回はたまたま隅野くんが薬物を使用していたから、私は救われてたんだね。もし、本当にただの幽霊騒ぎだったら、私はあらぬ疑いをかけていただけだ。了見が狭かったね。反省するよ」

 男「(首を振る)今回の件はあまりにもイレギュラーだったんですよ。それに、死体が出てきたから幽霊がいるという証拠になるわけでもないですよ。少なくとも先輩は正しかったんです。僕だけはそれを知ってますから、あまり気を落とさないでください」

 女「あはは(意地悪そうに笑う)、千蔭くんも結構言うようになったね。成長かな。それとも……好きな人の前だから、かな?」

 男「(そっぽを向いてグラスに口をつける)先輩はやっぱり変わりましたね」

 女「美容院行ったからね」

 男「そうじゃないですって。あと、僕は黒髪の方が好きです」

 女「そっかそっか。じゃあこのままにしておくよ」

 (女、ふふふ、と嬉しそうに笑う)

 (男は終始、恥ずかしそう)

 女「あ、そういえばさ(思い出したように)、一年前になんでもするって約束したでしょ? あれ使わないの? こういうときに使うべきじゃない?」

 男「どういうときですか」

 女「意中の相手と飲んでいるとき」

 男「……先輩、酔ってるでしょ」

 女「どうかな、そうかもね。好きな人と飲むお酒がこんなに美味しいなんて知らなかったんだ。ずっと、一人だったからさ」

 男「これからは、僕がいますよ。……いや、これまでだって、先輩が目を向けていないだけで、先輩のことを好きな人は大勢いましたよ」

 女「そうかもね。でも今は千蔭くんと猪川さんと椿さんだけで充分」

 男「そうですか(心底嬉しそう)」

 (女、グラスを干す)

 女「でも……ねえ、またやり直すことってできるかな。昔に別れた友達と、また仲良くなることってできるのかな」

 男「……先輩が望むなら、きっとできますよ」

 女「うん。そうだといいな」

 (女、店員を呼んで、注文する)

 (すぐに酒と料理が運ばれて来る)

 (二時間後)

 男「先輩、この後ってまだ時間ありますか?(そわそわと腕時計を見る)」

 女「あるよ。明日も仕事だけど、在宅ワーカーのいいところは朝起きられなくても務まるところだね。多少夜更かししても問題ないんだ」

 男「(緊張した声で)じゃ、じゃあ、店変えて飲み直しませんか」

 女「いいね。そうしよう。久しぶりにいい気分なんだ。……そうだ。うちにおいでよ。前に仕事関係でいいお酒もらってさ、一緒に飲まない? ここからすぐだよ」

 男「え、それって……」

 女「(不思議そうに首をかしげる)来ないの?」

 男「……………………ぜひ、お邪魔させていただきます」

 女「やった(無邪気に笑う)。じゃあ出ようか。すみません、お会計お願いします」

 (店員、恭しく伝票を受け取って、レジに立つ)

 (男が先に払ってしまい、女は不服そう)

 (女、先導するように店を出て行く。男、その後ろをついて行く)

 (店員、目線で男にエールを送る)

 (扉が閉まる)


    *


 家に着いたところで、不意に酔いが醒めてしまった。それなのに頬は熱いままだった。さっきまでまるで劇でも見ているように幸せな時間だったのに、思い返すと言葉の端々が恥ずかしくてしかたがない。酒を言い訳にしてホテルに誘う男と、今の私と、いったいどれほどの違いがあるだろう。

「先輩? どうかしました?」

 心配そうな顔で、千蔭がこちらを覗き込んできた。

「ううん、別に何でもないよ。あ、家はあそこね」

 私はそう言って七階建ての賃貸マンションを指さした。部屋数は一フロアに四つ。各部屋の間取りは1LDKの30㎡。風呂トイレは別。家賃は七万七千円。駅まで徒歩十分。

 二人で暮らすには少し手狭だ。近くに飲み屋以外の店もなく、住宅に囲まれているから、買い出しなんかは車がないと不便かも知れない。私は免許を持っていないが、千蔭はどうだろうか――

 そこまで考えてから、私はまた頭を抱えた。自分の頭がどんどんおかしくなっているのを自覚する。そしてそれすら、どうでもいいことだと考えてしまっているのだ。年下の大学生を部屋に連れ込むなど、少し前までまるで考えられなかった。一人用の折りたたみデスクが窮屈に感じるなんて思わなかった。

 千蔭は居酒屋の酒がだいぶ回っているようで、あまり酒を飲まなかった。美味しい酒だと聞いていたが、私ももう味が分からなくて、どんどん無駄に消費されていった。

 口数の少なくなった千蔭は、潤んだ瞳を私に固定していた。視界の端にそれを引っかけながら、私はまんじりともせず、グラスを傾け続けた。

「おつまみでも持ってこようか」

 視線に耐えられず立ち上がろうとしたが、酒に浸った体はふらつき、その場で尻餅をついた。

「大丈夫ですか? 僕が持ってきますよ」

「ありがとう。キッチンの下に入ってるから」

 千蔭は足をふらつかせることもなく、するめとチーズかまぼこ持って戻ってきた。そしてさっきよりも私に近づいて座る。にわかに緊張した。どちらかが少しでも指の位置を間違えたら触れ合える距離だった。

 私は彼に視線を向ける。千蔭も見つめ返してきた。視線が絡まる。もしここで目を閉じたらどうなるか、あるいは少し手の位置を間違えてみたらどうなるか。電気を消したら、吐息をもらしたら。そんなことを考えると、体が熱くなった。

 この先のことは分からない。確かなのは、私たちの関係を確かめるためのチャンスが目の前にぶらさがっているということだけだ。知り合いか、友人か、恋人か。他人のような友人でいたいと願ったのは私だ。その私が、友人のような恋人になりたいと願うのはわがままだろうか。

 背後には固いシングルベッドがある。二人の距離も申し分ない。夢を思い出す。あの通りにいくのならこの後、なにが起きるかは知っている。ベッドはふわふわのダブルじゃないし、夢で見たほど劇的じゃないけど、それでも私は、まったく同じ言葉を使うことにするだろう。

 ――ねえ、今日は、泊まっていきなよ

 心臓が、高鳴っている。

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