9
火はその二時間後にようやく消し止められた。なぜか全焼したのは小端の部屋だけで、他の部屋はほとんど被害を免れていた。出火原因は未だ不明。煙草の失火と推測されていたが、吸い殻は見つけられなかった。
被害者は小端明日香(20)、隅野瞬(21)。解剖の結果、隅野瞬は七月九日にはすでに亡くなっていたことが判明した。私はその前日に隅野が出かけていくのを見ている。このことから、七月八日に友人らと薬物を大量に使用した隅野が、家に帰ってから禁断症状で息を引き取ったと推測された。小端はそれから約一週間、死体と共に生活していたのだろうというのが警察の見解だと、椿から教えてもらった。
警察は、私を捕まえなかった。
逃げるとき、千蔭を庇ったまま二階から飛び降り、頭を強打した私は二日ほど意識を失っていた。目を覚ました日は、看病してくれていた猪川と椿に泣かれ、千蔭が無事であること以外は聞かなかった。
その翌日だった。改めて警察として訪ねてきた椿に、事件がどうなったかを教えてもらえた。逮捕しないのか聞くと、緊急避難という刑法を説明してくれた。一定の状況下でなら、他人の権利を害しても免罪されるという法律だった。加えて正当防衛でもあったため、私に罰が与えられることはなかった。
椿は昨日と一転、警察としての厳しい目で私を見据えた。
「火事場に飛び込ぶなんて危険を冒した以上、たとえそれで人を助けていても、私は警察として、あなたの行為を賞賛することはできません」
強い目が、私の心の柔い部分を撫でた。
「――ただ、私個人として、あなたの行動に敬意を表します。だから、あなたが原因で小端さんが死んだと思わないでほしいんです。あなたの行動は迅速で正しいものでした」
私はなにも言えなかった。
「それではこれで失礼します。退院する際はゆうに連絡してください。迎えに来ます。どうかご自愛ください」
椿はそう言って病室を出た。ほとんど同時にスマートフォンにメッセージが届いた。
千蔭からだった。
『お見舞いに来ました。話したいこともあって。入ってもいいですか』
私は扉に目を遣った。磨りガラスを通して、人影が揺れているのが分かった。自分の入院着と、風呂に入れていないことを考えて、このまま追い返してしまおうと、
『少し、体調がよくないから』
そこまで打ち込んでから、文面を変えた。
『五分だけ待って』
私はタオルを濡らして身体を拭き、猪川がお見舞いに持ってきてくれた即席シャンプーで髪を整えた。入院着の襟を正し、布団も足下にたたみ直した。
扉の前の人影はまだ揺れている。今か今かと待ちわびているのだろう。五分経つのを待ってから、
『入っていいよ』
とメッセージを送ると、不器用なノックが聞こえて、扉が開いた。彼は松葉杖をついていた。
「突然、連絡もなくすみません。でも、先に連絡したら絶対に断られると思って」
図星だった。私は平常心を心がけながら、「そんなことしないよ」と軽く笑って見せた。
「これお見舞いです」
千蔭は肩に提げたトートバッグから、クッキーの缶を取り出した。
「ありがとう」
サイドテーブルに置いて、近くの椅子に座らせた。病院からの借り物なのだろう。鉄製の松葉杖はあちこち傷だらけだった。
「まだ痛む?」
「鎮痛剤が効いてる間は平気です。薬が切れると、少しだけ」
「そっか」
「先輩の方は?」
「私は全然、なんともないよ。念のため入院しているだけだし、明日にでも退院になるんじゃないかな」
「それなら良かったです」
千蔭はほっとした顔つきになって、すぐに頬を固くした。
「鈴先輩」
真剣な声で呼びかけられる。
「僕は、先輩のおかげで命拾いしました。もしあのとき先輩が来てくれなかったら、こんなものじゃな済まなかった。殺されていたと思います。だから、小端のことは気に病まないでください」
そんなに顔に出ているのだろうか。自分では分からない。ただ、それがつらいのだと言ったら、彼はどんな顔をするだろうかと思った。
思っただけで、口にはしなかった。
「それより、話ってなにかな」
千蔭は少し言葉に迷ってから、単刀直入に言った。
「先輩はなんであの場にいたんですか」
「それは――」
私は経緯を説明した。どうせバレているのだろうと思い、猪川から千蔭の行動を聞いていたことも、小端の調査中、図書館で千蔭を見かけたことも、洗いざらい話した。
「そうだったんですか。先輩も……」
千蔭は嬉しそうな、恥ずかしそうな、気まずそうな顔を、誤魔化すように笑った。
事件の経緯が聞きたいことだとは思えなかった。今話したことなど、既に詳細まで訊いていたのではないだろうか。なにせ猪川はダブルスパイだ。あくまで中立な彼女は、千蔭の敵になることもなければ、私の味方になることもない。話した方が公平だと判断したら教えるだろう。
つまり、彼がここにやってきたのは、別の話が目的だ。そして、それが何かもだいたい分かっている。
「どうかしましたか、先輩」
千蔭は、私が黙り込んだのを不思議そうに見ていた。その目は迷いを孕んでいるように見えた。まだ話を切り出すことはなさそうだ。
それなら私から先に切り出そう。
「質問を返すようだけどさ、千蔭くんはどうしてあそこにいたの?」
「先輩と同じです。先輩よりも遠回りでしたけど」
千蔭は鞄からお茶を取り出し、唇を濡らした。
「猪川から話を聞いて、初めは無視しようとしてたんです。猪川が大学をやめてから、あの二人とは関係が悪くなって、ここ半年くらい一緒に行動することもなくなっていましたし。それでもやっぱり元々友人だったから、心配になって小端のことを調べていたんです。その一環で図書館にも行って、あのトンネルの事故記事の載った雑誌を借りて家で必死に考えました。たぶん先輩が見たのはこのときの僕だと思います」
頷いて続けさせる。
「中学生のころ理科は苦手だったので、月の動きやら形やらで隅野の矛盾は見抜けませんでしたから、もっと感覚的なものに頼りました」
「感覚的?」
「僕は幽霊を信じるタイプなんです。必要以上に怖がったりはしませんけど、いてもおかしくないだろうなとは思ってます。だから、隅野の話を否定しながら訊いていたわけじゃないんです。でも、そうするとおかしなことがあったんですよ。隅野は女の幽霊に襲われたと話していました。でも、あのトンネルの事故で、女性は一人も亡くなっていないんですよ」
「ああ、そういうこと」
今回の事件は、幽霊否定派の立場を取っても、肯定派の立場を取っても、必ず矛盾が生まれていたのだ。
「それに話に出てきた熊のぬいぐるみが備えられているのも不思議でした。女性も子どもも死んでいないのに、ぬいぐるみを供え物にするでしょうか」
「ぬいぐるみくらい、男性が好きでも構わないでしょう」
「それは現代の価値観ですよ。事故があったのは今から三十年以上も前――男らしく、女らしくがまかり通った時代です。たとえ個人がどれだけぬいぐるみを好きだったとしても、家族は名誉のために供えたりはしなかったのではないでしょうか。それだけじゃありません。ぬいぐるみは三十年以上も雨風に晒されていたのに、熊だと認識できるほど原形をとどめていたんです。小端の部屋で実際に見ましたが、保存状態も良くてずいぶん綺麗でしたよ」
そこで言葉を切って、
「――というのが、隅野の話を疑うきっかけでした。それからは小端を調査しながら、隅野がなぜ嘘をついていたのかを探りました。さすがにバレますから、アパートに行くことはできなくて、机上で色々な条件を精査しました。何度も図書館に足を運んで、隅野の状態を考えて、それで最終的に行き着いたのが、薬物でした。信じたくはなかったんですけど……残念です」
哀感の滲む溜息をついて、またお茶に口をつけた。
私はクッキーの缶を閉じた。
「ねえ、千蔭くん」
「なんですか?」
「繰り返すようで悪いんだけど、これは違う質問だと思ってね。どうして小端さんのアパートに行ったの?」
千蔭は言葉の真意を探るような目でしばらく黙っていた。視線を左右に揺らし、私を凝視し、一度目を瞑り、開き、言った。
「小端に呼ばれたんですよ。メッセージが送られてきて、助けてほしいから家まで来てって。それでアパートに行って、部屋に入れられて、そこで隅野の遺体を見つけました。初めは説得していたんですけど、どうにも話が通じなくて、警察に連絡しようと思ったら、『私のこと探ってる友達ってあんたでしょ。探ったなら知ってるでしょ。瞬のために死んで』と小端に包丁を向けられました。同時になぜか突然火がついて……あとは先輩の見たとおりです」
嘘をついていないと示すように、その目は私から一度も逸らされなかった。疑う気はなかった。彼は本当に呼ばれ、私のせいで勘違いを受け、被害を受けたのだろう。
それは分かっている。だから、問題はそこではない。
「そのときには既に、隅野くんの薬物のことを知っていたんだよね。どうして警察に連絡しなかったの?」
千蔭は首の後ろに手をやった。
「友達を売るみたいで嫌だったんですよ」
「それは君の主義に反すると思うけど。言ってたよね。悪いことには声を上げないといつか後悔することになるって」
「人は変わるものですよ。かつての友人は薬物に手を染めますし、人生を悲観していた友人は今日も明るく恋人の帰りを待っています。昨日まで悪しからず思っていた人間を今日嫌いになることだってあるでしょう」
最後の言葉は自分に向けられたものではないかと怯んだ。
「千蔭くんはそんな簡単に変わったりしないでしょ」
縮こまった喉から吐き出した牽制の言葉は、みっともなく震えた。
「……鈴先輩は変わりましたね」
千蔭は優しく笑った。
「一年前はもっと消極的だったのに。覚えてますか? 僕のことを気遣って、先輩は猪川が窃盗を行っていたことを言わなかったんですよ。それなのに、今じゃあこのまま終わるはずの事件を蒸し返している。このまま終わりじゃダメなんですか」
「そういう冗談は嫌い」
本当は千蔭の言うように、全部放り投げてしまいたかった。
でも、これは必要な手順だ。私が、彼の前から消えるための。
すべて解き明かして、互いに何のしこりもないまま、笑顔で別れよう。
「私は、君が嘘をついていると思ってる」
「嘘、ですか」
千蔭はわざとらしく首をかしげる。
「うん。小端さんは、ずっと隅野くんが幽霊に取り憑かれていたと思っていた。だから図書館で幽霊について調べていたし、お祓いも呼んでいた。アパートの住人に言わせれば、異常だったそうだよ。
それから、同じアパートに住む若い男性は、家に誘われたとも言っていた。浮気が目的かと思ったけど、恋人のため、友人に包丁を突き立てるような人だからね。可能性は低いと思った。それに、彼だけでなく、別の男性にも粉をかけていたようだったから、たぶん、『新鮮な死体』を得ることが目的だったんじゃないかな」
千蔭はなにも言わない。私の目を見つめたまま黙っている。
「いや、初めはそこまで直接的ではなかったのかもしれない。同じアパートの男性を家に誘ったとき、まだ隅野くんは生きていたから。幽霊を感染(うつ)そうと思ったんだろうね。図書館で読んでいた本の中には、幽霊をウイルスに喩えているものもあった。小端さんはそれを真に受けて――藁にも縋る思いで、実行しようとした。でもそうこうするうちに隅野くんは死んでしまい、ついに凶行に走った」
私は一つに纏めた髪の毛を一度解き、もう一度同じように結び直した。
「ここで初めの質問に戻るね。どうして千蔭くんは小端さんのアパートに行ったの?」
千蔭は目を伏せた。
「小端さんのことを少しでも調べていたなら、彼女が何をしようとしているか、呼ばれた時点で想像がついたはずだ。それなのに君は、あの場にいた」
落ち着かなそうに、手元のペットボトルをもてあそんでいる。
「ねえ、千蔭くん。どうして?」
顔を上げて私を見た。だが目は合わない。返答も、ない。
「……今から言うこと、違ってるなら言って。こんなの、私の思い上がりだった方がいいんだから」
だが私は確信していた。
きっと、私の考えは、悪いことに当たってしまっている。
「千蔭くん、私のことを調べていたんでしょ。きっと、もっと前から。それで、私が人殺しだと気づいた。図書館に来なくなったのは、私との関係を見つめ直すためだよね。それで、今回の事件に繋がる。――本当に、間違ってるなら言ってね」
再度念を押して、私は言う。
「千蔭くん。小端さんを殺すつもりだったんじゃないの?」
*
「なぜそう思うんですか?」
ようやく千蔭は口を利いた。
「リスクとリターンは、通常、釣り合いを持たせるものだけど、今回は少し違うね。リスクがそのままリターンになるんだ。小端さんが君に危害を加えようとすればするほど、君の正当防衛は認められやすくなる。そして認められれば、そのぶん罪の意識は大きくなる」
「罪の意識が大きくなるのがデメリットじゃないんですか」
「それも今回の場合はリターンだよ。自分で言うのも恥ずかしいんだけどさ、千蔭くんは私の過去を知った上で、やっぱり私のことが好きで、私との関係を絶ちたくなくて、だから似た境遇になろうとしたんじゃないの。仕方なく殺人を犯してしまった人間として、私に寄り添おうとした」
千蔭は少し考えるそぶりを見せて、
「それなら、どうして鈴先輩が入ってきたとき、まだ僕は小端と向かい合っていたんですか」
「火事があったからだよ。もしあの場で殺してしまったら、本当に正当防衛だったのかどうかの証明が難しい。本当は、火事さえなかったら、大声を出してアパートの住人を証人として呼ぶつもりだったんじゃない?」
千蔭はなにも言わない。ただ黙って私のことを見つめている。
「ねえ、千蔭くん。間違ってるなら言ってよ……」
千蔭はまたペットボトルのキャップを開け、唇を湿らせた。
それから、トートバッグからまち付きの茶封筒を取り出した。表には探偵事務所の名前が書かれていた。
笑顔で、言う。
「探偵って高いんですね。これのためだけに日雇いのバイトを何個も入れましたよ」
封筒が開けられ、中から書類が出される。
やはり――
そこには私の個人情報が事細かに記載されていた。氏名、生年月日、住所、電話番号、出身は当然、過去に私がなにをやったかも明記されている。
やはり、彼は私の過去を知っていた。
それが、答えだった。
そのとき、笑い声が聞こえた。
千蔭だった。病室だということに配慮しながら、身を折り曲げ、喉の奥を鳴らしながら、千蔭が忍び笑いをもらしている。
「先輩には、僕がそんなに悪人に見ますか」
千蔭は笑いの余韻を残したままの顔を上げた。
「確かに、狙いがあって小端に会いに行きましたけど、いくらなんでも、殺したりはしませんよ」
その顔は晴れやかで、一点の曇りもない。力が抜けた。浮かしかけていた腰を下ろし、ほっと息をつく。
「でも……じゃあ、狙いって何なの?」
「それは……」
千蔭は答えにくそうに口ごもり、私の顔を窺い見た。
「……怒らないでくださいね」
「約束はできないな。場合によるよ」
「……」
「言ってみて」
「正しさの証明をするためです」
「証明?」
「そうです。先輩、なにが正しいのかずっと悩んでいたじゃないですか。だからそれを僕なりに示せたら、先輩に対して少しでも償いになるんじゃないかと思って……」
償い? 私はこの後輩に何かされただろうか? その疑問はすぐに晴れた。
「先輩、僕の旧姓は神田といいます。あなたと同じ高校に通って、あなたをいじめていた神田真央の弟です」
「……!」
確かに言われてみれば面影があった。神田真央の表情から悪辣さと酷薄さを差し引いたら、彼のような顔になるのだろう。
「本当にすみませんでした。謝って許されることじゃないのは分かっています。姉があなたにした仕打ちはひどいものだったと聞いています」
私はすぐに顔を上げさせた。もう終わったことだ。
「でも、なんでそれが小端さんに会いに行くことに繋がるの?」
千蔭は照れたように笑って、首の後ろに手をやった。
「もっとスマートにできたら良かったんですけど……僕は小端に会いに行って、こうして怪我をしました。実際、あのままだったら殺されていたかもしれません。先輩はどう思いますか。小端のことを許せますか?」
ギプスと包帯で痛々しい彼の足を、立てかけられた傷だらけの松葉杖を見て、想像する。炎が渦巻く部屋の中、血まみれで倒れる千蔭。その脇には炎と返り血で真っ赤に染まった包丁を持つ小端。幽玄な目は危なっかしい光を宿している。やった、これで、瞬は……
「許せないと思う」
きっと蹴り飛ばすくらいじゃすまないだろう。
「小端は曲がりなりにも、自分の彼氏を救おうとしていたんです。それでもですか。それでも、正しい行動ではないと思いますか」
言葉に詰まった。許せないかどうかなら許せない。でも正しいかどうかだと、分からない。
誰かを救うための行動が誤っていて、でも、当人がそれを正しいと信じていて、かつ、別の誰かの害になっていることは本当に正しくないのだろうか。それだと無知や善意すら悪になる。本当にそうだろうか?
例えば、病人を民間療法で死なせてしまった人間は、正しくないのだろうか? ロープにぶら下がる目の前の友人を救うために、ぶら下がったもう一人の他人を蹴落とす行為は悪なのだろうか?
「……でも、あのままだと小端さんは千蔭くんを殺してた。その事実だけ見れば、あれは正しいことじゃなかった」
苦し紛れに言った。千蔭は続ける。
「では、僕はどうですか。危険なのを承知で小端の部屋に行って、事件に巻き込まれて、挙げ句の果てには殺されかけて、好きな人に怪我を負わせ、救おうとしてた友達すら救えなかった僕の行動は正しくないですか?」
これには即答できた。
「間違ってないよ。友達のために動いて、自分が殺されかけているのに、説得を諦めず、自決しようとした小端さんを助けて刺されたんだ。君は人としてなにも間違っていない」
「そうですか」
千蔭はほっとした顔も見せず、むしろますます頬を強ばらせ、
「じゃあ最後の質問です――」
固い声で言った。
「――先輩は、自分の行動が正しかったと思いますか。先輩のせいで小端は死にました。先輩のおかげで僕は助かりました。先輩は自分を正しいと、許せますか?」
呼吸が浅くなるのを感じる。もうやめてくれと思った。でも声には出せなかった。喉が絞られたように細くなっている。心臓がうるさい。頭の奥がいたい。
目を逸らすと鏡が目に入った。私の泣きそうな顔が映っている。千蔭も同じくらい辛そうな顔をしていた。
「私は……」
何とか声を絞り出し、それから考える。私は正しかったのか? 正しくはなかった小端を殺し、間違ってはいなかった千蔭を助けた私は、いったいどちら側だ? 私の立場はどこにある……
「先輩」
傷つく瞬間を切り取ったような表情の千蔭が私を見つめてくる…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………いや。もう、分からないふりはやめよう。分かっている。分かっているんだ。私はただ恐れているだけだった。間違えることと、自分のために誰かが傷つくことを忌避して、結局は誰かを傷つけていた。今回のことでよく分かった。私が怪我をしたと聞いて隈が染みつくほど看病してくれた二人も、怪我の体を押してここまで来てくれた後輩も、私が私を蔑ろにすることで傷つくのだ。
少なくとも、目の前の後輩にこんな顔をさせる私じゃ正しくない。
だから、答えは決まっていた。
「私は、間違っていなかった。正しかった。私は、私を許すよ」
千蔭は嬉しそうな、恥ずかしそうな、気まずそうな顔を、誤魔化すこともなく笑った。
「その言葉が聞けて良かった」
私は深く息をはきだした。
「ねえ、こんなことのために、あなたは自分の身を危険にさらしたの……?」
喜色満面だった千蔭の顔がばつが悪そうに歪んだ。
「……本当は、先輩を巻き込むつもりはなかったんです。ただ小端のことを止めに行って、僕が怪我を負って帰ってこれたらそれで良かった。先輩が僕らにどれだけ心配をかけているかを分からせるにはそれで充分だったから。でも……」
乾いた音が鳴る。体は勝手に動いていた。手のひらがビリビリと痺れた。千蔭は赤くなった頬を押さえて、苦笑いで私を見た。
「……怒らないでくださいって言ったじゃないですか」
「もう二度と、こんなことしないで」
目の前が涙でかすんだ。
「自分のこと、もっと大事にしてよ……」
「先輩もですよ」
手を取られる。彼は祈るように私の手を包み込み、強い目で私を見つめた。
「確かに先輩は間違っていたかも知れない。でも、当時はまだ子どもだった。それに先輩は変わった。周りだって。……もう誰も先輩を傷つけたりはしません。それでも困ったときは頼ってください。悩んだときは言ってください。一緒に苦しみは背負います。先輩が嬉しいときも悲しいときも、一生僕がそばにいます。
だから、もっと、自分を大事にしてください」
私が頷いたのと同時に、周りの音がすべて消えた。唇にやわらかい感触。心臓があばら骨を強く叩いているのが分かる。しかし耳はなにも捉えなかった。彼は私から手を離した。でも私は彼から離れなかった。
短く長い時間が過ぎ、顔を離すと音が戻ってきた。彼の表情をよく見る。耳まで真っ赤にして、目には涙が溜まっていた。それでも真剣な顔で、誤魔化そうとはしていなかった。
二回目は私からした。
私たちがまた顔を離したのと、看護師が入ってくるのはほぼ同時だった。たぶん見られただろう。それでも看護師は、「面会時間は終わりです」とだけ告げて、それ以上はなにも言わないでいてくれた。
「じゃあ、先輩。僕は帰りますね。退院したら飲みに行きましょう」
「そっか、千蔭くん。もう成人したんだもんね。うん、行こう」
「いい飲み屋探しておきます。おやすみなさい」
「おやすみ」
千蔭が出て行き、扉が閉まった。大きく息を吐き出す。頬が熱い。顔が熱い。体全体が、熱い。心臓が耳の裏に移植されたようだった。一人になった病室で、心臓ばかりがうるさい。
でもこれを孤独の音だとはもう思わなかった。声を出さずに歌えるラブソングだ。これなら聞くことだってできる。抱きついたり、抱き寄せたり、抱きしめたりしたら、きっと聞こえる感情の音だ。
今日は久しぶりに、上映会もなく、輝かしい未来をまぶたの裏に思い描いて、眠ることができそうだった。
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