予想通り、小端は図書館にいた。化粧もせず、ラフな格好をして、財布や携帯を必要としない行き先といえば、この近辺では図書館くらいしか思いつかなかった。当てずっぽうに近かったが、間違っていなくて良かった。

 素知らぬ顔で小端の斜め前に腰掛けた。念のため眼鏡をかけたり、帽子を被ったりして変装していたが、むしろ目立つかもしれないと思い、両方とも外した。

 小端は真剣な表情で本を読んでいて、こちらに気づく様子はなかった。彼女の前には何冊もスピリチュアルに関する本が積まれていた。

 一時間ほど経ち、小端はようやく席を立った。トイレにでも行くのかと思ったら、その足は出口へ向かっていた。机には本が残されたままだ。普段なら片付けられていないことに憤っていたが、今日はむしろありがたかった。

 小端が出て行くのを待って、積まれた本を手に取る。

『夢はすべてを読み解く魔法の鍵/貝塚某』

『宇宙からのエネルギーを感じるたった八つの簡単なこと/唐草七草』

『守護霊に教えてもらった開運の仕方 あなたは一人じゃない!/北山八真』

『降霊術入門/キカ・アリス・バーク』

『仏と霊と私 ~霊峰・玉置山で知った霊界交信秘術~/久我山春峰』

『スピリチュアル・ヒーラーの本音と独言/クルウヅキカノン』

 ……

 奥付を見ると、発行年代や専門性にばらつきがあるのが分かった。ゴシップ誌ばかりを出している中小出版社の名前も、経済誌やファッション誌まで手広く担っている大手出版社の名前もあった。作者の知名度にも差がある。どういう基準で選んでいるのか気にかかり、そもそも小端が何を知りたいのか考え、そこで共通点に気がついた。

 本棚に目を遣る。予想通り、どの棚も作者順に並んでいるようだ。スピリチュアル系の本が集まった棚には、小端が取ってきたぶん、ぽっかりと穴が開いている。

 基準は何か、ではない。小端はそもそも選んでいなかったのだ。片っ端から読んでいるのだろう。貝塚、唐草、北山、キカ、久我山、クルウヅキ……今日は〝か行〟の作者だったらしい。

 私は目の前に積まれた、〝か行〟に目を通すと、〝あ行〟の作者も頭から捲っていた。

 共通して言えることは、科学的根拠に基づいて幽霊を否定しているものが一冊もないことだった。幽霊がいるかいないかではなく、幽霊は善性か悪性か、あるいは、感じられるか感じられないかが論じており、あくまで幽霊や言霊やエネルギーや運勢などはごく当たり前に存在する前提で語られているのだ。

 スピリチュアルな存在は、彼らにとって自然現象と似ているのかもしれないと思った。風は吹く。それが追い風なのか向かい風なのかを彼らは論じている。その根本を否定する人間は、風なんてものは存在しないと主張するように見えているのかもしれない。中にはスピリチュアル存在を否定する人間を、「科学至上主義の現代社会に毒された哀れな存在」とするものもあった

 馬鹿らしいと一蹴することは簡単だった。私は霊的なものを信じていないし、何らかの宗教を信仰しているわけでもない。そもそも幽霊という存在はあやふやだ。なんだってできるようだし、なにもできないようでもある。そんな曖昧なものを信じろという方が難しい。

 だが、中には面白い着眼点のものもあった。『科学に上位する心霊』という、著名(らしい)研究家が書いたものだった(私は寡聞にしてその名前を知らなかったが)。

 そのうちの第三章「霊という非存在の存在定義」には、こう書かれていた。


 幽霊とは不可思議極まりない存在である。というのが通説である。

 ときには人をおびやかし、ときには人を助け、語られる話によって姿を変え、行動を変え、名前すらも変えてしまう。霊はじつに掴み所のない存在だ。見えるときと、見えないときがあり、感じられるときと感じられないときがある。これは高名な霊媒師であっても同じことで、日によってはまったく霊との交信ができないこともある。

 現代社会に生き、霊魂との関係を断ち切って久しい方々は、この点がどうにも理解しがたいようで、曰く、「だから幽霊を信じていない」らしい。

 論理学的にいえば、この考えは極めてナンセンスである。「証明は肯定する者にあり、否定する者にはない」ということすら彼らは分かっていないのだ。存在していないという消極的事実の証明の困難性は中世の頃から既に語られていたというのに。

 しかし。なぜ幽霊がこうも曖昧で掴み所のない存在だと思われてしまうのだろう。

 誤解を恐れず言うのなら、幽霊とはウイルスと同じである。

 わたしたちは常日頃から、ウイルスを感じながら生活はしていない。どこそこにウイルスが浮いているだとか、ここそこにウイルスがある気がするだとか、そんなことを考えながら生活している者はいないだろう。

 しかし風邪を引いたらどうだろうか。自分の体の中にウイルスが広がっていく想像をしたことがない者はいないだろう。洗面所や便座や果ては額に当てられたタオルを見てウイルスの増殖を考えたことがない者はいないだろう。そうでなくとも、例えば、潔癖症の人間はウイルスを意識しながら生活している。

 幽霊の存在もそれと同じなのだ。

 人は皆、うすうす幽霊の存在を知っている。しかし、幽霊を意識しながら生活している人間はそういない。現時点で霊に関わっている人間か、霊感のある人間くらいのものだ。しかしそうした人間は少なく、その存在はいつしか忘れられる。何十年も風邪を引いていない人間が、そのうちウイルスという存在を忘却してしまうのと同じだ。

 そして彼らは忘却したあとにこう言うのだ。「そんなものは存在しない」と。

   (中略)

 また幽霊をウイルスと称したのはこれだけが理由ではない。幽霊は人から人へ取り憑くことができる。一般には「憑依」や「取り憑かれる」と表現されるが、これもまた幽霊という非存在の存在には欠かせない議題である。本書では「霊感染」と表現しているが、霊感染に関しては、次の第四章で詳しく説明している。人に取り憑いた霊を人に移すことができるのかというテーマを主眼に据えて、いくつかの成功事例と共に検証しているので是非目を通していただきたい。

 これを使えば、科学的根拠にしか目を向けられない人間にも幽霊の存在を知らしめることができるかもしれない。……なんて、そんなことは無理だ。分かっている。

 先人の言葉にもあるように――曰く、「馬鹿は風邪を引かない」と。


 本から顔を上げると、見知った顔が目の端に引っかかった。私は咄嗟に身を隠し、外していた帽子と眼鏡をつけた。変装のおかげか、それとも私の影が薄いおかげか、恐らく後者だろうが、彼には気づかれなかった。それはそれで悲しい。

 彼はしばらく書棚の間をさまよい、何冊かの雑誌を借りると出て行った。

 なぜ、千蔭がここに。訝しんだのは一瞬で、すぐに思い出した。猪川が言っていたではないか。彼は最近、市営の図書館を利用していると。うかつだったのは私の方だ。もし鉢合わせていたら。不安と期待が混じり合って、溜息としてもれた。

 なんの本を借りていったのか知りたかったが、図書館員は「規則だから」ととりつく島もなかった。職業倫理に関わることなのかもしれない。千蔭が見ていた書棚にも目を通したが、何を借りていったかまでは推測できなかった。

 だが、なぜいるのかは分かる。

 大方、小端の助けになるようなことを調べていたのだろう。やはりなんだかんだ言いながら、友人を大切に思っているのだ。

「よしっ」

 私は帽子と眼鏡を外し、髪を結び直した。次はトンネル事故について調べるつもりだった。

 閉館時間ギリギリまで読みふけり、館員に急かされるようにして図書館を出た。だいぶ日は長くなってきたが、八時ともなると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 空を見上げると、上弦の月は西に傾いていた。

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