翌日、七月七日。日が暮れてから、小端と隅野が住んでいるというアパートまで足を運んだ。住所は昨日のうちに猪川から聞いていた。

 そのアパートは住宅街の一隅に間借りするようにひっそりと建っていた。周囲の民家と、車通りの少ない道路で区切られているせいで、まるで追いやられているように見えた。近くに学校や公共施設が点在しているため、人通りは多いが、誰もこのアパートには一瞥もくれなかった。調査しやすい好条件だ。このあたりをうろついていても怪しまれることはないだろう。

 私は自分を注視している人間がいないことを確かめてから敷地に足を踏み入れた。まず隅野の現状が本当か確かめるところから始めるつもりだった。半狂乱になって叫んでいることもあったらしい。アパートの住人に聞けば真偽を確かめられると踏んだ。

 そのとき二階から扉の開く音が聞こえてきた。女性が外階段を降りてくる。見覚えのある顔だ。私はとっさに身を隠し、猪川から送ってもらった写真と女性を見比べた。化粧をしていないため印象が違うが、間違いなく小端明日香だった。

 夏だというのにスウェットを着ている。私も人のことを言えないが、暑くないのだろうか。アパートの敷地を出て、少しだけ後をつける。鞄はおろか、どうやら財布もスマートフォンも持っていないようだ。どこに行くのか見当をつけて、私はまたアパートに戻った。ひとまず住人に聞き込みをしてからでも遅くはないだろう。

 いくつかの部屋のチャイムを鳴らし、出てきた住人に話を聞く。皆、初めは訝っていたが、大学の友人だと言うとすんなり教えてくれた。

 どうやら二人は、このアパートに住んでいる人間にとっては語り種らしい。


 小端の部屋の真下に住んでいる男は、

「二週間くらい前だったかな。夜中に突然叫び声が聞こえたと思ったら、天井がどんどん鳴らされてよ。頭にきて文句言いにいったんだ。そしたら女が出てきてずっと頭下げてくるんだよ。『なんでもないです、なんでもないです。夜分にごめんなさい』って。だから言ってやったんだ。『男なんだから、もう少し彼女のこと大事にしてやれ』って。

 でも男は俺に気づいてなくて、ずっと暴れてたな。なんか女の名前を叫んでたけど、それがあの彼女の名前かは知らん。たぶん違うんじゃねえかな。あ、叫んでた名前? 確かみゆだかうみだか、そんな感じだったな。浮気相手でもいるんじゃねえの。

 『酒でも飲んでるのか』って聞いたら、『幽霊が……』って女は言ってた。頭のおかしい二人だと思ってもう関わらないことに決めたよ。幽霊なんているわけねえのに。最近のわけえやつは心がなよっちいから、すぐそういうもんに惑わされるんだ。この前なんかどこぞの坊さんを呼んで昼間っからお祓いの真似事してたんで笑っちまったよ。人間、信じようと思えば何でも信じられるんだな。なあ、あんたはどうだ。幽霊信じるか」


 右隣に住んでいる女性は、

「ほんといい迷惑よ。暴れてるのはまだいいの。そう何回もあるわけじゃないから。警察呼べば解決するしね。

 でも毎日毎日あの二人が喧嘩してるのが聞こえるのは勘弁してほしいわ。こっちまで気が滅入っちゃう。原因? 知らないわよ。でも、基本的に男の方が女の子に文句言ってるわね。たまに壁が殴られたりするし、こっちまで怒鳴られてるみたいでほんと気分悪いわ。嫌になっちゃう。なんで女の子もさっさと別れないのかしら。

 ……いや、別れられないんでしょうね。悪い男が魅力的に見える時期って女なら誰にでもあるから。分かるわ。恋愛の酸っぱい部分を食べたくなる時期っていうの? 何度か顔を合わせたことあるけど、あの子はそういう男にハマりそうな雰囲気だったわ。男ってそういう女を嗅ぎ分けるのは上手いから、もし今の男と別れても、似たようなことになるでしょうね。これは一種の体質なのよ。

 あんたはない? 悪そうな男が魅力的に見えること。ふっ、でしょうね。まだまだお子様って感じだもの。あなたがもっと大人になったら、そういう男の魅力も分かるようになるわよ」


 左隣の青年は、

「ああ、あそこのカップルですか。問題多そうですよね。ヒモ男と貢ぎ癖のある女って感じで。馬鹿みたいですよね。互いに互いを縛り合って、嫌なら別れればいいのに、現状に文句を言いながら付き合っていくんですよ。たいていこういうことを言うと『恋愛は頭で割り切れるものじゃない』とか言われるもんだから困りますよ。

 隣の女もその手合いで、前に泣きつかれたことがあったんですけど……え、いつ? 確か、男が暴れていた日の翌日かな。二週間前だったと思います。ゴミ出しに外に出たら、ちょうど鉢合わせて、その話を少しだけしたんです。他の住人にも文句言われて、大変そうでしたから。そしたら彼女、ボロボロ泣き出しちゃって。その場で慰めたんですよ。

 それで『そんなに嫌なら黙って出て行けばいい』とアドバイスしたんです。そしたら案の定、『恋愛は頭で割り切れるものじゃないから』って。『でも、このままだとあたし耐えられないから、たまにでいいの。吐き出させて』とも誘われました。『今、彼留守にしてるから』って。

 もちろん断りましたよ。勝手に恋愛して、勝手に傷ついてるんだから、自業自得だと思いませんか。後悔するくらいなら、初めから恋愛なんてしなければいいのに。でも、これもきっと『頭では割り切れない』の餌食にされるんでしょうね」


 住人の話を書き留めてから時間を確認する。

 小端が出て行ってから二十分ほど経っている。私は最後に大家を訪ねた。一つだけ扉の色が違う部屋のチャイムを鳴らす。一分ほど経ち、小柄な老婆が出てきた。

「誰だい、あんた」

 ひどくしゃがれた声をしている。つり上がった金壺眼は、私を値踏みするように無遠慮だった。

「ここに住んでいる隅野さんと小端さんのことについて伺いたいのですが」

「どういう関係だ」

「ちょっとした知り合いでして。大学の友人なんです」

 他の住人と同じように、大家もまるで堰を切ったように滑らかに話し始めた。

「あの二人、大学にもう行ってないんじゃないのか。男の方はほとんど昼間は家から出てこないし、女の方は水商売やってるだろ。だいたい夜になると派手なドレス着て家を出て行くよ。それで、女がいなくなってから、男の方も出かけることがある。柄の悪い連中が男を訪ねてきてね、車に乗ってどっか行っちまうんだ。それで明け方までには帰ってくる。どこに行ってるのか、女が知っているのかは分からないけど、でも、一回外で喧嘩しているのを見たことはあったね」

「いつ頃のことですか?」

「先月の頭だったか。珍しく男が昼頃から出かけていったからよく覚えてるよ。その次の日、喧嘩してる声が聞こえた。男が朝帰りしたことに女が怒っているみたいだった。すぐに収まったけどね。でもその次の日からだった。幽霊がどうこう、お祓いがどうこう女が言い出したのは。ふん、馬鹿らしい。幽霊なんかより、人間の方がよっぽど怖いってのに」

 先月の頭とは、心霊スポットに行った日だろう。

 大家は顔中の皺を寄せ集めるように眉をひそめた。

「なあ、あの二人と大学の友達ってのは本当かい。あいつら、不動産屋の手先じゃないかと思ってたんだが、違うのかい」

「どうしてそう思われたのですか」

「都市開発のために邪魔だとか、老朽化が進んでるとかで、役所の人間が土地を譲るように言ってくるんだ。昔からさ。そのたびに揉めて帰らせるんだけど、それを良く思われないのも当然だわな。だから、ああいう若いのを使って、うちの土地代を下げようとしてるんじゃないかって思ってね。男がつるんでる連中のなかには、明らかに堅気じゃないのもいるから」

「……そういうのではないと思います」

「ああ、なんだ。それならよかった。もし不動産屋に噛んでるようなことがあったら、殺してやろうかと思ってたんだ。こんなぼろ屋でも、死んだ夫と切り盛りしてたアパートだ。取り上げられるくらいなら、いっそ殺して燃やしちまった方がいいわな。あたしも思い残すことなく逝ける」

 さっきまでのしかめ面が嘘のように、口元の皺を伸ばして軽快に笑った。

 なるほど。確かに人間の方がよっぽど怖いかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る