第四話 愛 〈「わかってないわよ…。もう、いないのよ。あなたを攻撃した人達は、もういないの」 ――中村文則『土の中の子供』〉
1
孤独には音がある。
それは特別な音ではなく、また決まった音でもない。周囲に人がいるときはひっそりと息を殺しているくせ、一人きりになった途端にやかましくなる雑音の数々だ。鳥のさえずりやパソコンの駆動音や、耳鳴りや家鳴りや、あるいは私に無関係の楽しげな会話だったり、笑い声だったり。今は心臓の鼓動となって、私の耳を苛んでいる。
本を閉じて時間を確認する。十九時三十分。もうすぐ閉館時間だ。窓の外には初夏の澄んだ夜空が広がっている。窓を開けたらきっと気持ちのいい風が吹き込んでくるだろうと予感させる夜だった。これ以上待っても彼は来ないという諦めと、もしかしたら今日こそはという期待が胸中でせめぎ合い、それがいっそう孤独の音を大きくした。このやかましい心臓を蹴り飛ばしてくれる足音。それを待っていた。心臓はさらに高鳴るだろうが、耳はそれを捉えない。そのための音を。
一分が経ち、三分が過ぎ、五分を超えた。孤独はずっと鳴っている。また一分、三分、五分を数える。心臓ばかりがうるさい。一分、三分、五分。誰も来ない。一分、三分、五分。諦めが先立つ。一分、三分……そこで、足音が聞こえた。
顔を上げ、階段に目を固定する。足音はゆっくりゆっくり上がってくる。疲れて体を引き摺っているようではなく、かといって元気に弾んだようでもない。いつもの動作を繰り返しているだけの、平たく言えば慣れた足音だった。私は、本を片付けるために席を立った。椅子を引いたときの耳障りな音が、静寂に爪を立てた。
「そろそろ閉館時間になります」
予想通り、上がってきたのは顔見知りの図書館員だった。三階に私以外の誰もいないことを確認してもう一度、「閉館時間です」と言った。
「もう出ます。遅くまですみません」
図書館員は共犯者じみた笑顔を向けてきた。
「また明日いらしてください」
彼女がここに勤めて何年になるのかは知らない。でも一年前にもここで働いていたのは確かだ。私がなぜ閉館時間までいるのか、何を待っているのか知っているのだろう。
私は急に恥ずかしくなって、鞄を持ってすぐに階段を下りた。図書館員は当たり前のような顔でその横をついてくる。話すことももなく、ただ肩を並べて一段一段下っていく。
彼女が何を聞きたがっているのかは分かっている。私と彼にまつわる全てのことだ。最近彼を見ないけど喧嘩でもしたの? 仲良かったよね? というか付き合ってたの? どっちから告白したの? 図書館以外にもどこか行った? まだ付き合ってるの? それとも――別れちゃった?
それでも彼女は何も言わず、私を横目で覗って、ときおり口を開きかけては、思い直したように前に向き直った。沈黙していても彼女は多弁だったが、最後まで何も聞いてこなかった。
「夏期休暇中は閉館時間が変わります」
出口のゲートを開けるとき、彼女はどこか得意げに言った。
「もうすぐですから」
念を押される。礼を言ってすぐにゲートを通過した。熱視線を背中に感じ、肩越しに目を遣ると、図書館員の彼女はもどかしそうな顔で私を見ていた。
家に帰り、シャワーを浴び、仕事のメールを返してから、少しだけ本を読み、床についた。眠りにつくまで暗い天井を見上げなから毎夜考えることは決まっている。思い出の上映会だ。夜中二時の感傷は睡眠薬にはならなくても、私が眠るまでの暇つぶしにはなってくれた。
今日も私は孤独の音を聞きながら、目の前の暗い現実におやすみを告げ、まぶたの裏に輝かしい過去を見る。執着か名残惜しさか、最近はもっぱら、千蔭と出会った日のことを思い出す。
初めて声をかけられたのは大学図書館の雑誌コーナーだった。二年前のことだ。彼はこう言ったのだ。
「それ、〈月刊明鏡〉ですよね。しかも最終号。なにか知ってるんですか?」
もし『ゼクシィ』や『ひよこクラブ』を読んでいても、彼は同じように声をかけてきたのではないか。そう思わせるくらい、その身のこなしは自然だった。垢抜けた服装と、整った容貌。声にも芯が通り落ち着いている。
ナンパだと思った。
「知ってるといえば知ってるけど。でもみんなそうでしょ? あれだけ有名になっていたんだから」
「そうじゃなくて……」
彼は困ったように笑って首の後ろに手をやった。後から知ったことだが、それが彼の困ったときの癖だった。
「もしかして関係者なのかなと思って」
「そうだとしたら?」
「聞きたいことがあるんです」
「そう。なら残念だったね。たまたま読んでただけだよ」
「そうでしたか」
彼はがっかりした顔もしなかった。あまり表情が豊かな方ではないというのも、後で知ったことだ。
「もういいかな。そろそろ帰らないと」
「はい、すみませんでした」
頭を下げてそのまま立ち去っていく。本当に〈月刊明鏡〉について聞きたかっただけらしい。なんだか釈然としなくて、
「本当にもういいの?」
気がついたらそう声をかけていた。
「え」
「ああ、いや、別に。本当に〈月刊明鏡〉について調べてたんだと思って」
「嘘だと思いましたか」
「そうじゃなくてさ。……初対面の男の子にいきなり声をかけられたら誰だって勘ぐるでしょ、いろいろ」
彼は少し考えてから、目を大きくした。
「そういう意図はなかったです。ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。むしろ好感を持てるくらい」
「ナンパじゃなかっただけで?」
「うん。意外と多いんだよ、女が一人でいると。ここでも、ここ以外でも、何回か声をかけられたことがある。大抵は困っているふりをして近づいてきて、大した手間もかからない手助けをすると、お礼にご飯に誘われる。ホテル付きのレストランとか、ビアガーデンにね」
彼は首の後ろに手をやって、口端をわずかに上げた。
「大変なんですね」
「ごめん、愚痴っぽくなっちゃった。君、名前は?」
「穂(ほ)崎(ざき)千蔭です」
「千蔭くんか。いい名前だね。このあと暇? どこか行かない?」
「どこかって」
「どこかはどこかだよ。静かで二人っきりになれる場所」
千蔭は赤面して、はにかむように笑った。気がついたときには、私は千蔭を部屋に連れ込んでいた。これではどちらがナンパしているのか分からない。机の上には既に缶が散乱している。口数の少なくなった彼は、潤んだ瞳を私に固定した。視界の端にそれを引っかけながら、あれこれ理由をつけて、「暑いね、クーラーでもつけようか」「あ、酔っちゃった? 水持ってくるよ」私は立ったり座ったり少しずつ距離を詰めていく。やがて、どちらかが少しでも指の位置を間違えたら触れ合える距離まで縮まったところで、ようやく彼の目を見つめ返した。視線が絡まり、数秒後、魔法のようにふわふわなダブルベッドを背に、私は最後の一言を口にする。ねえ、今日は、泊まっていきなよ――
目が、覚めた。
いつの間にか寝ていたらしい。閉め忘れたカーテンからのぞく、気後れするくらいの朝の光が私の顔に纏わり付く。当然、ここには私以外の誰もいない。外からセミの鳴き声が聞こえる。さらに心臓の鼓動と、寝返りでベッドのきしむ音。今日の孤独は一段とかまびすしい。自分の体温でぬるくなったシングルベッドは固く、思わず溜息がもれた。
夢とは都合のいいものだ。私がいつ千蔭と酒を飲んだ? いつ家に連れてきた? そしていつベッドに誘った? そもそも初対面であんなに積極的に話していなかったじゃないか! せいぜい二、三言交わしたくらいだ。私たちの交流は確かに降って湧いたものだったけど、決してその日のうちに火がつくようなものではなかった。そして、恐らくこれからも火がつくことはないだろう。私たちはあまりに互いを知らなさすぎる。声を出さずにラブソングは歌えないように、耳を塞いだままそれを聞くことができないように、私たちの間には、恋愛に必要なものが欠けている。
他人のような友人。どこまでいっても、それが私たちだった。
机の上でスマートフォンが震えている。メッセージの着信だった。
『一時に、いつものところで待ってます』
十時を表示する時計を見て、私は顔を洗うため洗面所に向かった。
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