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太陽が恨めしい。まだ七月六日だというのに気温は三十度を超え、日差しは痛いくらいに照りつけている。束ねた髪には熱がこもり、ただ立っているだけで自然と汗が滲んできた。灼けたアスファルトから立ち上る陽炎に足下は揺らめいている。
図書館とコンビニに行く以外はほとんど部屋にこもりきりで、体力は一年前と比べても明らかに落ちていた。
十分もしないうちに陽炎ではなく目眩のせいで足下が揺れるようになり、目的地の少し手前にあるコンビニで足を止めた。
コンビニの軒先で、涼んでいると、
「ミスズ!」
そう声が聞こえた。思わずそちらを振り向く。涼しげなセーラー服を着た少女が走ってくるのが見えた。向けられる視線に反応しかけたが、すぐ勘違いに気がついた。私の隣のセーラー服の少女。どうやらその子に向けられたものだったらしい。同級生だろうか。長い髪を揺らして、「遅いよー」とはにかんでいる。
「ごめん! 補習、長引いちゃった!」
追いついた少女が息を整えながら言った。ミスズと呼ばれていた少女は、持っていたアイスをその首筋に当て、「ちゃんとできたの?」と少し大人びた調子で言った。「もちろん、ミスズに教えてもらったからね」首筋に当てられたアイスを受け取ると、少女はさっさと包装紙を破いて口に運んだ。「お礼は何がいい? ジュース?」ミスズは「そう」とだけ言って、満足そうに笑う。それから少女の手元へ口を寄せ、アイスを一口頬張った。「お礼は、これでいいよ」
それ以上見たくなくて、私はその場を立ち去った。過去のきらめきに当てられ目眩がひどくなったようだった。ふらつく足に、むち打ちながら何とか進んでいく。
私にもあんなときがあった。「桐江ちゃん、理科の補習どうだった?」「ばっちり、美鈴の教え方が上手いからね。月と太陽は連動して動いてるって思ったら分かりやすかったよ。今度何かお礼するから」「お礼なんていいよ」「人からの厚意は受け取るものだよ。いつもありがとう、美鈴!」たったそれだけで完結する世界。その幸せに気がつけないほど幸せだった。それが今では人の厚意を満足に受け取れず、自衛のためだけに頭を使うようになってしまった。
時間とは残酷だ。そのままでいるには長すぎ、変わるには短すぎる。
「……輩」
せめて、あの二人には変わらずにいてほしい。身勝手にそう思った。私たちにはできなかったことだ。見捨てることでしか自分を守れなかった私には。変わることでしか前に進めなかった私には。
そして、変わらずにいようと自分すら傷つけるあの子には。
「……先輩」
今でもあの子はどこかで苦しんでいるのかもしれない。怯えてうずくまって、泣いているかもしれない。でもそれを考えると苦しくなるから、いつしか私は考えないようになった。今ではあの子がどんな風に笑っていたのかも思い出せない。たった一人の親友の笑顔すら私は……
「鈴先輩ってば!」
腕を掴んで引き留められた。ハッと顔を上げる。長身の女が立っていた。明らかに男物であろうポロシャツを、男よりも上手に着こなしている。
待ち合わせ相手である猪川優佳だった。
「時間になっても来ないから、心配したんですよ。連絡しようと思ったら、姿が見えたので飛び出してきちゃいました」
ふらふらと歩きながらも、カフェの前まで来ていたらしい。
「なにかありましたか?」
「ううん。ごめん、少し遅れただけ」
「……無理だけはしないでくださいね」
猪川は私の手を取ったまま店に入った。注文を取りに来た店員に、猪川と同じものを頼む。
「それ暑くないんですか。袖くらい、捲ればいいのに」
私は長袖の端を掴んで、手のひらまで伸ばす。
「こんなもの見せても、気分悪くするだけでしょ」
手首に這うミミズ腫れは大分薄くなったが、一生消えることはないのだろう。過去の苦しみを、殺してしまった重みを、私はこの身に宿して生きていくのだ。そういう意味で、これは
「別にあたしは気にしませんよ」
見透かすように笑ってくれるが、私は笑顔でその話をやめさせた。
「それより、最近はどうなの」
「彼女との関係ですか? 良好ですよ。同棲して半年ですけど、毎日楽しくて……」
「そうじゃなくて」
「え、じゃあ何ですか?」
本気で分かっていないような顔を作ってくる。言わせようとしているのだ。
聞こえよがしに溜息をついた。
「千蔭くんのことだよ。……分かってるでしょ」
「冗談ですよ。そんな怖い顔しなくても」
猪川は軽く頭を振った。
「千蔭、最近は……いえ、最近も、といった方が正しいですか。相変わらずですよ。授業にはちゃんと出てるようですし、特にこれといって、変なこともありません。あ、でも日雇いのバイトを少し前からやってるって言ってました。イベント会場の設営とか、意外と稼ぎやすいらしいですよ」
「そっか。他には?」
「変わったことなんてないですって。買い物に行ったり、遊びに行ったり、あと……最近は、市営の図書館によく行ってるみたいです」
「何時くらい?」
「四時とか五時とか、授業が終わった後ですよ」
「そう……」
一年前までその時間は、私との時間に充てられていたはずだ。夕日の射す窓際のテーブルで二人きり、本を読むだけの幸福。でも今は一人だ。彼はその時間、市営の図書館に行っているらしい。なぜ大学図書館ではダメなのだろう。欲しい本がないから? それなら書店で買ってこればいい。少なくとも、一年前はそうしていた。ではなぜ?
「お待たせしました。アイスコーヒーになります」
コーヒーが運ばれてきた。店員ははにかむように笑って、
「あと、今コーヒーに無料でシフォンケーキがつけられるんですけど、いかがですか?」
「へえ、いいですね。じゃあ二つ。お願いします」
「分かりました。味は何にしますか? フルーツとチョコと抹茶になります」
「自分はチョコレートで。先輩は何にします?」
こちらを向いた店員の目が厳しいものに変わった気がした。
「フルーツで……」
そう答えると、店員はまた笑顔で猪川に視線を戻した。
「チョコとフルーツですね。すみません、本当は注文を取るときに聞くんだったんですけど……」
「いえ、構いませんよ。お忙しそうですし」
「そう言ってもらえると助かります。今、ホールに一人しかいなくて――」
取るに足らないやりとりを横目に、一口飲んで気を落ち着ける。長々とした雑談に、ゆったりとした店内のBGM、他の席から聞こえる控えめな話し声。ここでも孤独は穏やかに鳴っている。
「――あ、すみません、私ったらこんなに話しちゃって。では、ごゆっくりどうぞ」
店員が猪川だけに微笑みかけて下がっていった。
「元気な店員さんですね」
どうやら中性的な顔立ちで、髪が短く、男物の服を着ている自分が周りからどう見られているのか分かっていないらしい。なんて女泣かせだろう。そっと先ほどの店員を伺うと、キッチンのスタッフと小さくはしゃぎながら猪川に熱いまなざしを送っていた。客の視線に敏感なのか、彼女たちは私に気づくと冷ややかに睨んできた。地味女のくせに気に入らない、とでも思っているのだろう。
「どうかしましたか?」
猪川は不思議そうに首をかしげる。
「別に、無自覚は怖いなってだけ。なんでもないよ」
世の中には知らない方が幸せなことがたくさんある。自分が男に勘違いされていることとか、ただの知り合いを恋人だと思われていることとか、
慕ってくれていた後輩に嫌われているかもしれないこととか。
「千蔭くんのこともうそれで全部? まだあるなら隠さずに教えて」
「隠してないですよ。今月見たことは全部伝えました。……鈴先輩、そろそろこんなストーカーみたいなこと、やめませんか」
これはたびたび言われることだった。
「迷惑をかけてるのは分かってるよ」
「別に、迷惑とかじゃなくて。本当に、鈴先輩には感謝してますし。でも……」
義理堅い子だ。心配してくれているのだろう。
一年前、初めて会ったときもそうだった。窃盗事件の後日、千蔭に連れられて図書館に私を訪ねてきた彼女は、対面に座るといきなり頭を下げ、
「手前勝手なことに巻き込んでしまい、大変申し訳ありませんでした」
顔を上げて、
「それから、ありがとうございました。千蔭から聞きました。あなたのおかげで、あたしは何とか前を向いて生きていけそうです」
突然のことに理解できず、目線で千蔭に説明を求めた。
「猪川、大学をやめるんです。曽根山先輩は許してくれましたけど、責任を取るという形で。で、今日は退学届を出しに来たんですけど、最後に先輩にちゃんとお礼を言っておきたいって」
「あなたがいなかったら、あたしはもっとダメになっていました。あのまま取り返しのつかないことをしていたかもしれない。前を向けるようになったのは鈴先輩のおかげです。ありがとうございました」
また頭が下がりそうだったのを制止した。
「あなたを救ったのは千蔭くんだよ。私じゃない。謙遜じゃなく、本当にね」
「もちろん千蔭にも感謝しています。でも千蔭はあなたがいなかったら、私には気がつけなかったと言っていました。私にとっては二人とも恩人です」
何の憂いもない、晴れやかな表情だった。千蔭も嬉しそうに笑い、しばらく三人で談笑していた。
「そうだ。連絡先、聞いてもいいですか」
去り際、そうして猪川と連絡先を交換した。どうせ使わないだろうと思っていたが、そのすぐ後に千蔭が図書館に来なくなり、私は一も二もなく、猪川に連絡を取った。
『大学には普通に行ってるみたいですけどね。たまに話も聞きますし』
電話越しにそう聞いて、言葉に詰まった。このときの私は千蔭がまだ自分に気があると思い上がっていたから、混乱した。ただ嫌われたのではないかと考えると、血の気が引いた。自分が今、立っているのか座っているのかすら判然としない。頭がぐわぐわと揺れる。荒い呼吸が耳についた。
そのとき、猪川の言葉が福音のように響いた。
『鈴先輩? 何か困りごとですか。あたしで良ければいくらでも手を貸しますよ。力になれるかは分かりませんけど』
「……じゃあお願いがあるんだけど――」
私は、千蔭がどのように行動しているか見張って、月一で報告するよう頼んだ。我ながら気持ち悪いとは思う。こんなのストーカーと変わらない。当然猪川にも拒否されたが、それとなく自分が恩人であることを仄めかすとしぶしぶ承諾してくれた。
恋愛は人の頭をおかしくする。かつて自分で言った言葉が、他人の声のように耳の奥で反響した。
『でもそんなことして、どうするんですか。図書館に来なくなった理由が、先輩を嫌っていたからだとして、それを知ってどうしたいんですか』
「決めてはないけど、でも、ちゃんと話はしたい」
猪川は少しだけ考えてから、
『……これだけは聞かせてください。先輩、千蔭のこと好きなんですか』
「うん。多分――」
言いかけてから、ここで逃げるのはずるいと思い、言い直した。
「――いや、多分じゃない。ちゃんと好き。だからこのまま絶縁はいや」
自分の頬が熱くなるのを感じる。それでも誤魔化すようなことはしなかった。猪川も真剣な声のまま、
『分かりました。協力します』
それから今日までの一年間、猪川は義理堅く、私の目となってくれた。おかげで千蔭が、図書館に来なくなる少し前に大学の新任講師と居酒屋で会っていたことを知れたし、バイトをしていることも、市営図書館に行っていることも知れた。
それでも行動からでは、千蔭が私をどう思っているのか知ることはできなかった。
「いつまでもこんなことしている場合じゃないでしょう。千蔭と一緒にいたいなら、いつかは絶対向き合わないといけないんですから」
アイスコーヒーをかき混ぜていた猪川に、諭すように言われた。これもよく言われることだった。私はいつものように返す。
「事情が複雑なんだよ」
いつもならこの話はこれで終わるはずだった。しかし今日は、その先があった。
「繰り返すようですけど、あたしは本当にあなたに感謝しています。あたしの人生を救ってくれた。千蔭も、あなたも、大切な恩人だと思っています」
「なに急に」
「自覚の話ですよ。先輩はいつも、自分を卑下してますよね。千蔭に言われませんでしたか。謙虚も過剰なら卑屈だ、って」
「……今日の服、かっこいいね」
「このあと彼女とデートなんです。話を逸らすなよ」
厳しい顔で睨まれる。
「……あなたが何を抱えていても千蔭は引きませんよ。保障します。むしろ、あなたが千蔭のことを嫌う可能性の方が高いでしょう」
「何か知ってるの?」
「言いませんよ。先輩が本人から聞くべきことです。部外者の出る幕じゃありません」
すげなく言って、メニューに手を伸ばした。
「お昼はもう食べましたか? サンドイッチがオススメみたいですよ」
今日はこれで終わりという意味だろう。私は諦めて、猪川の広げるメニューに目を落とした。
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