翌日。土曜日にもかかわらず、僕はまた大学に来ていた。書店には寄らず、図書館へ向かう。腕時計は五時を示していた。西日がガラス戸に反射し、僕の目を射す。

 休日の図書館は、いつも以上に閑静だった。その静寂に一歩一歩自分の足音を響かせ、三階へあがる。一番奥の席。鈴先輩はやはり、いつもの通りそこにいた。長く伸びた髪は雑に纏められ、オーバーサイズの服に包まれた先輩は小さく見えた。

「やあ千蔭くん。こんにちは」

 僕の足音に気づいた先輩が、本から顔を上げて手を振った。袖は親指を隠すくらいまで伸ばされ、万が一にも手首が顕わにならないようになっている。

「昨日は先に帰っちゃってごめんね。あれからどうだった? 姫野くんは納得してくれたかな」

「先輩、なんで隠し事をしてたんですか?」

 先輩は少しだけ考えて、手首をさすった。

「大学生だって誤解させていたのは謝るよ。色々事情が重なって、大学に進学できなかったから未練があるんだ」

 あくまで惚けるらしい。僕は先輩の対面に座って、その目を見据えた。

「そうじゃありません。先輩は僕の腕時計を盗んだのは姫野という男子学生の仕業だと暴いてくれました。でも曽根山先輩の件については触れなかったんです。どうしてですか」

 目線で続きを促される。普段の優しさを失って淀み、濁った、真っ直ぐこちらを射貫くような強い目だった。

「初めはそれも姫野の仕業だと思っていたんです。でも昨日、本人に否定されました。『そんなことをしても俺にメリットはない』と。確かに言われてみればその通りで、曽根山先輩の腕時計まで盗ってしまっては彼に被害者という言い訳を与えることになり、僕と曽根山先輩の仲を険悪にするという意図から外れます」

 鈴先輩は手首を握りしめている。

「必死に考えました。曽根山先輩の腕時計を盗んだ犯人と姫野の間に関係はあったか、否か。曽根山先輩の腕時計を盗んだ理由はなんなのか。犯人は誰なのか。まず、曽根山先輩の犯人と姫野は共犯ではありません。もし共犯だったら、さっきも言ったように、曽根山先輩の腕時計まで盗むメリットがないからです。では逆に、反目し合っているのだとしたら? これもあり得ません。もし曽根山先輩を助けるのが目的であったり、姫野を貶めるのが目的であっても、もっと別のやり方があるからです」

「そうだね。二人の犯人はそれぞれを知らないだろう。続けて」

「では、なぜ曽根山先輩の腕時計が盗まれたか。これは簡単です。犯人は曽根山先輩と僕の仲を疑い、その決裂を誘発しようとした。つまり、姫野と同じ動機です」

「そうかもしれない。もし曽根山先輩を害したいのならもっと直接的な方法があるし、金がほしいのならもっと楽な方法がある。でも、姫野くんと動機が同じなのに、どうして千蔭くんの手元に曽根山先輩の腕時計はなかったのかな。そうでなかったら、君と曽根山先輩の仲を引き裂けないのに」

「その前に気づいたからですよ。僕の鞄に腕時計を忍ばせる前に、僕も腕時計を盗まれていることに気がついた。そのまま僕に曽根山先輩の腕時計を持たせても意味がない。それどころか意図が気づかれる可能性さえある。だから入れられなかった」

 鈴先輩はふっと表情を翳らせた。

「もう、全部分かったんだね……」

「ええ。犯人の条件は僕のときとほとんど同じです。ただ、僕の時計が盗まれたことを知っている人間というのが新しく追加され、代わりに男性であるというのが除外されます。僕のリュックサックに腕時計を忍ばせるだけなら、男子更衣室に忍び込む必要はないからです」

 鈴先輩は、かなしみにあふれた目で僕を見た。僕は大きく息を吐き出して、犯人の名前を告げる。

「猪川優佳ゆうか。彼女が曽根山先輩の腕時計を盗んだ犯人でした」


     *


 刺々しい夕映えに満ちた喫煙所で、猪川は煙草をふかしていた。まだ未成年だというのに、慣れた様子で紫煙を吐き出している。入ってきた僕に気づくと、

「ごめん。すぐ消すよ」

 やはり慣れた手つきで火をもみ消した。

「煙草、吸ってたんだ」

「ああ。高校生のときからちょくちょくね。最近は法律を気にして控えてたけど、盗みを働いて今さら遵法も何もない」

 僕の送ったメッセージは短く、『話がある』猪川の返信も、『喫煙所』『一人でいるよ』素っ気ないものだった。だが僕にはその時点で、猪川は僕が気づいたことに気づき、自分の罪を認める気なのだと分かっていた。

「腕時計の件だろ?」

 猪川は自分から、落ち着いた声で切り出してきた。

「どうして分かったのかだけ聞かせてもらえないかな。成功はしなかったけど、失敗もしてないと思うんだ。それから、千蔭の腕時計が戻ってきた経緯も」

 猪川の目は僕が喫煙所に入ってきたときから、僕の腕時計に向けられていた。本気で安心したような目だったのが、殊更に悲しかった。猪川は僕を心から心配してくれていたのだ。それでも僕は、鈴先輩がどのように犯人を暴いたか、僕がどのように猪川にたどり着いたかを話した。

「そっか、姫野がね。どっちも腕時計を盗むなんて、そんな偶然もあるんだ」

 猪川はまた煙草を取り出そうとして、僕を気遣ってやめた。そんな動作が僕の口を重くする。それでも引き返すわけにはいかなかった。

「でも、なんで猪川が僕と曽根山先輩の仲を引き裂こうなんて……。曽根山先輩が好きだったのか? それとも僕?」

 猪川は自嘲的に笑って首を振った。

「まあ普通はそう思うよね。でも違う。これは千蔭だから言うけど、あたしも同性愛者なんだ。だからそういう動機じゃない」

 僕に向き直って、

「千蔭、改めてごめん。飲み会の件も、腕時計の件も。謝って済む問題じゃないのは分かってる。だから、私なりの誠意を見せるよ」

 そう言って喫煙所を出た。「ついてきて」その言葉に、僕も続く。

 連れてこられたのは、書店だった。『本日の営業は終了しました』の看板が、電源の落とされた自動ドアの前に置かれている。猪川はそれを一瞥すると裏に回った。ちょうど従業員出入り口から一人の男性が出てきたところだった。見慣れた顔――本山さんだった。

「猪川さん……と、千蔭くん? どうしたの」

 どこか白々しい声色だった。

「ごめんなさい本山さん。ぜんぶバレちゃいました」

 猪川はそう言って、事件の顛末を全て話した。話し終えるころには、本山さんの顔から表情は失われていた。

「そう」

 ひどく低い声で、

「で、なんで猪川さんはここに来たの? 自分の立場分かってる?」

「あたしなりの誠意ですよ。千蔭には迷惑をかけたから。死なば諸共って言葉、ご存知ですか?」

 本山さんは軽く舌打ちをして、そっぽを向く。猪川は僕を振り返った。

「さっき、なんでって聞いたよね。答えはこれだよ。あたしが好きだから曽根山先輩の腕時計を盗んだんじゃない。本山さんが千蔭を好きだから、あたしに腕時計を盗ませたんだ」

 本山さんは猪川を恨むようににらみ、言い訳がましい目で僕を一瞥し、顔を伏せた。その反応から冗談で葉ないことが分かった。

「なんで猪川がそんなことに協力を……まさか同情とか?」

 猪川は友人想いで、心根の優しい人間だ。周囲をよく見て、気を遣えるタイプでもある。だからもしかしたら、本山さんに肩入れしたのではないかと思ったのだ。同じ同性愛者として、未だ社会からつまはじきにされる仲間として。

 しかし猪川は首を振った。

「千蔭は優しいね。でも残酷だよ。あたしは千蔭に思われているほど立派な人間じゃない。自分の犯罪を隠すために、さらに犯罪に手を染める愚か者だ。自分の利己心を満たすためだけに、他人を害する犯罪者だ……こんなこと、自分の口から言わせないでよ」

 泣きそうになりながら、それでも猪川は続ける。

「ほんの出来心だったんだ。ふらっと書店によって、たまたまその日は持ち合わせがなくて、でも買わなくちゃいけない教科書があって、だからレジを通さず店を出た。刺激を求めていたわけじゃない。未成年なのに酒や煙草に手を出すような、深夜に安全ピンでピアスを開けるような、そんな程度の気まぐれで、あえて理由をつけるなら……少しは気が晴れるかと思ったんだ」

 喉を潰すような沈鬱な声に、こちらの胸まで押しつぶされそうだった。

「苦しかったんだ、ずっと、苦しかった。あたし以外の誰かのためにあたし以外の誰かが作ったモラルやマナーでがんじがらめにされて、どんどんすり減らされていく日常が。その誰かはあたしのためには何もしてくれないのにあたしだけが周りに気を遣って、それすらも気に留められないのが。だから少しくらいならいいだろうって甘えた。どうせいつも通り誰も見ていない、って」

 嘲るような笑い声がもれたが、その顔は翳ったままだった。

「多数派にとって、少数派なんて存在してないのと同じなんだ。だから平気で蔑ろにする。あたし達を見ないように、あたし達の声を聞かないようにして、それを『配慮』って言うんだ。それであたし達がどれだけ傷ついているか知らないくせに」

 猪川が憎むような目で僕を――多数派を見る。

「子どものときから同性が好きだった。異性に特別な感情は抱けなかった。その深刻さをまったく理解していなくて、中学生になったあたしは、そのことを友だちに話した。親友だと思っていたから。でも翌日以降、口を利いてもらえなくなった。まるで幽霊みたいに扱われて、理由を聞いたら『配慮』だと言われた。以来、あたしは自分の感情を殺すようになった。自分の性的指向を無視すれば、誰もあたしを無視しないから。でも結局、どこかでボロは出るんだよ。異性を紹介されたり、彼氏の有無を訊ねられたり。せっかくできた彼女を恋人だと認識してもらえなかったり、果てには自分が男だったら良かったのになんて思うようになって。どうして自分は少数派に生まれてしまったのか、どうして自分は普通に生まれられなかったのか、自分が常に不正解を歩んでいるみたいに思えてしょうがなかった」

 潤んだ瞳を隠すようにまぶたを下ろし、深く息を吐いた。

「……万引きを誰かのせいにするわけじゃない。全部あたしが悪かった。多数派に属することができなくて、異常に生まれてしまって、そのせいで苦しみを抱えてそれを上手く解消できなくて……全部自分のせいだ。万引きはすぐ本山さんにバレた。そして千蔭への恋心を聞かされ、協力を迫られた。強制されたとは思ってない。これも飲酒とか喫煙とかピアッシングとかと同じ、ただの憂さ晴らしだったんだ」

 充血した瞳が僕を捉える。

「千蔭ごめんな。あたしのこと信用して、友だちと思ってくれてたのに、こんな裏切るようなこと……」

 猪川は目をこすって、痛々しく笑った。

「学生課に自首してくるよ。今の経緯も話して、曽根山先輩に時計を返してくる。本山さん行きましょう」

 不貞腐れたように俯いていた本山さんは顔を上げて、無言で頷いた。それからぼくに視線を流し、

「千蔭くんを好きだったのに嘘偽りはないんだ。君が書店に通ってくれるようになってからずっと好きだった。叶わないと諦めてもいた。どうせ自分が好きになった男が同族ゲイだったなんてことほとんどないんだ。君はよく『先輩』の話をしていたしね。でも君が同族ゲイだって噂が流れ始めて、その上、男の先輩と付き合っているなんて聞いて、いてもたってもいられなくなった。自分にももしかしたらチャンスを作れるかもしれない。そう思ったんだ。それなのに……そうか、結局は全部勘違いだったのか」

 自嘲するように鼻を鳴らした。

「どうして普通に生きられなかったんだろうな。もしぼくか君が女だったら、こんなことにはならなくて済んだかもしれないのに……」

 不安定に揺れる声だった。

 それでも僕は言わなければならない。二人を肯定するために。二人の心が潰れないように。

 二人の背中が小さくなる前に。

「男とか女とか、同性愛者とか異性愛者とか関係なく、僕は二人を軽蔑する。他の誰が二人のおこないを無視しても、僕だけはしない」

 猪川が振り返った。本山さんもつられたように振り返る。二人とも目を大きくしていた。四つの瞳には涙の薄膜が張り、輝いて見えた。僕はそれが零れ出す前に二人に背を向け歩き出す。

 後ろから猪川の声が聞こえた。本山さんも何か言っている。何を言っているかは聞き取れなかった。礼かもしれないし、恨み言かもしれない。意図が伝わったかも分からない。

 それでも言葉は届いていた。

 それから僕はもう一人、向き合わなければならない先輩の顔を思い浮かべた。


     *


「解決して良かったね、で終わらせちゃダメなの?」

 僕は眉をひそめて見せる。

「そういうジョークは嫌いです」

 鈴先輩はふっと息を吐いて、髪の毛を結び直し始めた。

「千蔭くんが何を聞きたいか分かるよ。どうして私が、猪川さんの名前を挙げなかったか、でしょ」

「そうです。姫野と猪川の犯行動機はどちらも一緒でした。先輩なら姫野が犯人だと気づいたとき、猪川にも気づけたはずでしょう」

「どうかな、買いかぶりすぎだよ」

 先輩はかぶりを振る。きれいに結われた髪がゆるゆると揺れた。

 僕は勢い込んで言った。

「僕が自分で解いたらいずれ猪川にたどり着いてしまう。だから自分が解くことで、曽根山先輩の件には触れず終わらせようとしていた。姫野に会いに行かない方がいいと言ったのも同じ理由じゃないですか」

「……そこまでお見通しなんだ」

「でも、どうして……」

 鈴先輩はまるで仇でも見るような目で僕を見上げた。

「君は、怖くないの? 自分に好意を持った人が犯罪者になってしまうのが。自分の言動一つで、善人を悪人にしてしまうのが。もし君を好きじゃなかったら、姫野くんは犯罪者にはならなかったかもしれない。もし本山さんが君を好きじゃなかったら、猪川さんは罪を重ねなかったかもしれない。全部君を中心にして起こってしまったんだ。それが、怖くないの?」

 僕はその目をしっかりと見つめ返す。

「怖いですよ。怖いに決まってる。でも、間違っていることには声を上げないと、いずれ後悔することになるから」

 姉の葬儀を思い出す。白木の棺を、白煙を吐き続ける香炉を、遺影に収まる姉の笑顔を。もし僕が姉を止められていたら、姉は今も生きていたかもしれないのだ。

「……やっぱり君は強いね。私もそう考えられたら良かった」

「僕は、別に……」

「ねえ、今なら宿題に答えてもらえるのかな」

 いきなりだった。

「誰が悪いかだよ。KかMか。恋心から事件を起こした人間か、事件を解き明かしたせいで事態を引っ掻き回した人間か」

 ついに来てしまった。もう先延ばしにはできないだろう。ここで先輩との関係が終わってしまうかもしれないとしても答えないという選択肢はもうないのだ。

「僕は……」

 喉が渇いていた。深く息をはきだして、また吸って、

 先を続けた。

「Kが悪いと思います」

 鈴先輩は口端をわずかに上げて笑った。なぜか泣いているように見えた。

「きっと、それが正解だよ」

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