「なんで曽根山先輩がスズ先輩なんて呼ばれてるんでしょう」

「さあ。名前からのもじりじゃないから、もしかしたら不名誉なあだ名なのかもしれないね。私の呼称とも被るし、曽根山先輩と呼ぶことにするよ」

「そうですね」

「さて、次は曽根山先輩の容疑に関してだけど……」

 鈴先輩は言いながら一つに束ねた髪を気遣わしげに触った。その拍子に袖がめくれて、

「あ」

 咄嗟に袖を伸ばしたが遅かった。幾重にも重ねられ、ミミズ腫れになった自傷の痕が覗く。僕はさりげなく視線を逸らす。

「……ごめんね、汚いもの見せて」

 か細い声も聞こえないふりして、

「僕の腕時計は曽根山先輩が持っていたわけですし、単純に考えれば盗ったのは曽根山先輩ってことになりますけど……」

 先輩は手首を隠すように腕を組んで、

「じゃあ曽根山先輩が犯人だと仮定しよう。でもそうなると、非合理なことが一つ。不可能なことが一つある」

「非合理なこと……時計が盗られたと教務課に行ったことですよね」

 鈴先輩は首を振った。

「惜しいけどそうじゃない。曽根山先輩が犯人なら、窃盗被害に遭っていても遭っていなくても、自分から被害者になりにいくというのはむしろ合理的だよ。でもその後が問題なんだ。千蔭くん、学生課に行ってすぐにもう一人の被害者を教えてもらえた?」

「ああ。学生課は一度、僕に個人情報を教えるのを渋って、曽根山先輩に確認を取っています。それなのに許可を出したのが非合理ってことですね」

「そういうこと。もし曽根山先輩が犯人だったら、個人情報だから教えないでくれとでも言えば、千蔭くんと接点をつくることはなかった。なのに、個人情報を教えるのを許可し、その上、腕時計まで返したんだ。嫌疑が向くのは分かりきっているのに。こんなに非合理的なこともないでしょう? だから曽根山先輩は動機の面で、犯人ではない」

「確かに」

「曽根山先輩が裏の裏まで読んで、あえて嫌疑を向けられる立場を選んで嫌疑から逃れようとしていたとしても、やっぱり曽根山先輩は犯人にはなれない」

「さっき不可能だと言っていましたね」

「うん。更衣室で犯行があったんでしょ? ロッカーの、リュックサックの、ポーチの中に、腕時計をしまっていたんだよね。そして千蔭くんはいつも同じロッカーを使っていた。場所は決められているのかな」

「いいえ。何度か授業があれば、自然と定位置はできますから」

「つまり千蔭くんの腕時計を盗んだ犯人は、一、ロッカーの場所。二、君のリュックサックがどういうものか。三、時計がしまってある場所。最低限この三点知っている人間に限定される。また、財布などの貴重品ではなく、わざわざポーチに入れられた腕時計を盗ったことから、君が腕時計を大切にしていることを知っていたというのも条件に入れていいかもしれない。さて、曽根山先輩はそれに該当するかな」

 少々芝居がかった先輩の言葉に、僕は首を振った。曽根山先輩が友人から僕のロッカーの場所とか、リュックサックの形状とかを聞いた可能性も考えたが、あり得ないだろう。隅野に寄れば、曽根山先輩は『いっつも一人でいる』ようだし、僕の友人も片手で数えれば足りるほどに少ない。

「でも、わざわざ盗んだものを他人の手を介して返却するなんて、犯人はなんでそんなことを……」

「簡単だよ。もし私が千蔭くんが盗まれたはずの腕時計を持っていて、私は盗っていないと言ったとして、それを信用できる?」

 自分の恋心を試されているのかと思い「できます」と言おうとしたが、先輩はそれを見透かしたように、

「まあ片想いの相手なら信用するだろうね。恋愛は人の頭をおかしくするから」

 とあっさり言った。「片想い」という言葉に僕は密かに傷つき、でもそのすぐ後に「先輩の照れ隠しなのかもしれない」と淡い希望に縋り、「恋愛は人の頭をおかしくする」という言葉に先回りされていて、さらに深く傷ついた。

「ごめんね。例えが悪かった。もし隅野くんが君の腕時計を持っていて、盗ってないと主張したとしたらどうだろう? 信用して、これからも友だちでいられる?」

「……できません」

「でしょ。犯人もそれを狙ったんだ」

「僕は曽根山先輩と仲良くありませんよ」

 一、二回会話しただけで仲良くなれるのなら、今頃僕は鈴先輩と恋人関係にある。

 しかし鈴先輩はゆるく首を振った。

「事実かどうかは重要じゃないよ。犯人がどう思ったかだ。思い出して。千蔭くんは飲み会で『スズ先輩のことが好きだ』と思われる言動をした。君は私のことを思い浮かべていたのかもしれないけど、隅野くん達は曽根山先輩を思い浮かべていたんだ」

 不意に『仮面の告白』を思い出した。それから僕に向けられた奇異の視線や、隅野達の態度の変化を。

 鈴先輩はゆっくりと頷く。

「君は、曽根山先輩と恋仲にあるとでも思われていたんじゃないかな。だから周りの反応が変わった」

「……!」

「多様性が叫ばれる時代だけど、そんなもの表面上だけだよ。同性愛者に思われて、千蔭くんは今、どう思ってる?」

 僕は何も言えなかった。不名誉だと思うことは、つまり、僕に奇異の視線を向けてきた連中と根底が同じである証拠だ。

「別に恥ずかしいことじゃない。私たちが子どものときはまだ、そういったものに寛容じゃなかったから。人は異性を好きになるもので、同性を好きになるのはおかしい。そういう社会だったんだ。一朝一夕でその認識を変えられるはずがない。むしろ、いま理性的に判断して黙っていられる千蔭くんは立派だよ」

 知育のような語りかけに、いっそう自分を恥じた。僕が視線を逸らすと、鈴先輩はすぐ話を戻した。

「……犯人の条件はある程度絞られてきたね。一、ロッカーの場所を知っている人物。二、飲み会での会話を知っている人物。三、千蔭くんと曽根山先輩のリュックサックを知っている人物。四、腕時計のしまってある場所を知っている人物。五、男子更衣室に堂々と入れる人物――学生課で防犯カメラを見られているからね。もし怪しい人がいたら教えてもらえたはず――つまり男性。この五つの条件を満たす人物に限られる」

「隅野はその一人ですけど、あり得ないと思います。僕とずっと一緒にいたので」

 授業中も一人になりたがらず、ずっと僕の隣にいたのだ。

「猪川くんはどうだろう。彼もこの条件には当てはまるんじゃないかな」

「……猪川は女ですよ」

 鈴先輩は目を少し大きくした。

「そうだったんだ。ごめんね、喋り方からてっきり男の子だと思ってた」

「本人も男物の服を好んで着てますし、無理もないですよ」

「でも、おかげで説明しやすくなったよ。千蔭くんには二つ勘違いしているって言ったでしょ? 一つはスズ先輩について。スズ先輩は私ではなく、曽根山先輩だった。だから隅野くん達は面白がったんだ。じゃあその引き合いに出された〝姫野さん〟は男かな、女かな」

 僕は急いで隅野に連絡を取った。すぐに返信があった。

「どうだった?」

「姫野さんは――姫野光輝こうきという名前の男性でした」

 鈴先輩は満足そうに頷いて、髪を解いた。

「つまり犯人は姫野くんだと考えられる。恐らく隅野くんから千蔭くんのことを訊いたんじゃないかな。飲み会でそんな話になったんでしょ? それに姫野くんの情報を益体もなくあれこれ話した隅野くんのことだ。千蔭くんのことを姫野くんに話していても不思議じゃない。それで姫野くんは、君が自分と同じ同性愛者だと知り、好きになって、でも曽根山先輩と恋仲にあると勘違いして、それとなくロッカーの場所や腕時計のことを聞き出して、今回の窃盗事件を起こした。これにどれだけの労力がかかっているんだろね。恋愛ってのは本当に――」

 ――人の頭をおかしくする。

 その言葉はこびりついた油のようだった。

「……僕、今から姫野くんと話してきます」

「やめておいた方がいいんじゃない。今更行ったところで無駄に傷つくだけだよ」

 達観した物言いに僕は首を振る。

「でも、好意に気づいてしまった以上、それになんの返答もしないのは不誠実ですから」

「……千蔭くんは強いね」

 鈴先輩は少しだけ寂しそうに目を細めた。

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