「まず千蔭くんは今回の事件で、二つの先入観による勘違いをしている。それさえなかったら、きっとこの事件は単純だ」

「先入観ですか」

 鈴先輩は頷く。そのわずかな所作からさえ、普段のぼんやりした感じは窺えなかった。

「まず一つは鈴先輩……つまり私について。仲間内の飲み会で私の……鈴先輩の話題があがったんだよね。でも私はその場にいる誰とも面識がない。そもそも友達がいないし」

「聞いてないです」

「高校のときいじめられてたのも本当だし」

「聞きたくないです」

「ごめんね」

 鈴先輩が薄く笑った。

「でも、千蔭くんが私のことを誰にも言っていないことを踏まえると、そこにいた隅野くんや小端さんが――他にも君を白い目で見るようになった周囲の人間が私を知っていたのはおかしいよね」

「知らないうちに有名になっていたんじゃないですか。いつの間にか周囲に名前が知られてることは少なくないですよ」

「そうかもしれない。千蔭くんも飲み会以降、有名になっていたみたいだし、そういうことはあり得るだろうね」

 鈴先輩は、でも、と付け加える。

「それにはいくつかの条件がある。まずは誰か、発信力のある人間と仲が良いこと。そしてその発信力のある人間が吹聴して回ること。千蔭くんの場合なら、隅野くんが発信力のある人間かな。そして隅野くんがこう吹聴する。『俺の友だちに穂崎千蔭ってやつがいるんだけど、あの鈴先輩のことが好きらしい。マジでセンスねえよな』」

 改めて聞くと面映ゆく、それ以上に憤りを感じる言葉だった。だが鈴先輩はそしらぬ顔で続ける。

「こうして君の噂が広まり、周囲に名前を覚えられたと考えることはできる。でも私は、さっきも言ったけど、そんな友達はいない。それにスズ先輩は君の噂が立つ前から――飲み会の以前から有名だったんだ。これもまたおかしいことだとは思わない?」

 頭の中で言われたことを整理する。僕が今、周囲からおかしな目で見られるようになったのは、鈴先輩のことを好きだと隅野に知られ、流布されたからだ。ではなぜそれ以前から隅野達は鈴先輩を知っていたのだろう。

 そこであることに思い至る。

「そういえば先輩は何学部なんですか? もし隅野達と同じ……」

「私は、経済学部じゃない」

 鈴先輩は先回りして答える。

「言いたいことは分かるよ。学部っていうコミュニティの中、なんの関わりのない人にいつの間にか認知されているなんてよくある話だ。でも私は経済学部じゃないし、もう一度言うけど、隅野くん達とは本当に何の接点もない」

「先輩の所属する学部で先輩が有名になって、それをが隅野達まで広まったとしたら」

「それもないね」

 言下に却下される。

「飲み会の席で、隅野くん達は他学部の人づてに聞いた話をするとき、情報元を明らかにしていたんだよね。法学部の誰々さん、教育学部の誰々さん、体育学部の誰々さんって。でもスズ先輩にはそれがなかった。つまり、スズ先輩は経済学部だと推測することができる。でも私は経済学部ではない。ということは?」

「鈴先輩と、飲み会で名前の挙げられたスズ先輩は別人?」

「そういうこと。ダメ押しにもう一点付け加えておこう。私のついていた嘘についてなんだけど――」

 鈴先輩はそこで言葉を切り、

「――ごめんね、千蔭くん。ずっと騙してて。実は私、この大学の学生じゃないんだ」

「え?」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。鈴先輩は申し訳なさそうな顔で、財布から即席の入館許可証を取り出した。誰でも図書館に入り浸れる魔法のカードだ。

「年齢は本当に千蔭くんの一つ上だし、もし大学に通っていたら三年だけど、大学生じゃないんだ。この大学の近くに家があって、便利だから利用させてもらってるだけの、ただの社会人だよ。普段は家で仕事をしてる。在宅ワーカーってやつだね」

「そうだったんですか……」

 先輩が授業の時間にかかわらず図書館に入り浸れていた理由をようやく理解した。

「ごめんね。千蔭くんが誤解しているのは分かってたんだけど、なかなか言い出せなくて。ここにいると自分が本当に大学生になれた気がしたんだ。それで余計に……」

 鈴先輩は頭を下げた。

「本当にごめんなさい」

「別に、怒ってはないですよ。ただびっくりしただけで」

 本当だ。怒ってはいない、びっくりもしている。だが、思ったよりショックを受けているのもまた本当だった。この一年間、本当のことを教えてくれなかったことにも、自分がまったく気がつけなかったということにも。

 自分だって隠し事をしているくせ、そんなことを気にする小心さを振り払う。

「でも、じゃあ、隅野達のいっていたスズ先輩っていうのは誰なんですか。僕、この大学であの三人と鈴先輩以外に友達いないですよ。飲み会の日も、隅野に『いい雰囲気だった』なんて言われるほど親密に話していた人、鈴先輩以外には、いませんし……」

 自分勝手に親密だなんて、図々しさに顔が赤くなるのを感じた。鈴先輩は僕を一瞥するにとどめて、真面目な顔のまま首を振った。

「人は見たいように物事を見るものだから。隅野くんの言葉もどこまで本当かは分からないよ。話を盛り上げるために大袈裟な表現をしたのかもしれないし。飲み会の日、ただ話していただけでも、いや、挨拶を交わしただけでも隅野くんは『いい雰囲気』と言ったかもしれない。所詮は酔っ払いの戯言なんだから」

 でしょ? と先輩は僕に微笑みかけてきた。

「さて、もう分かるよね。スズ先輩は経済学部で、飲み会の日に言葉を交わした、三人の友達以外の学生だよ。……そんな人間、一人しかいない」

 僕の頭に恐縮して肩を縮こめる、弱々しい姿が思い浮かんだ。

「曽根山瑛太先輩です」

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