曽根山先輩から話を聞き終えた僕は、いつものように書店を経由して(今日は何も買わなかった)、図書館へ向かった。本山さんの耳にも、僕と鈴先輩の噂は入っているらしく、またそれが騒がれているのも知っているようで、素っ気ない対応をされた。自意識過剰かもしれない。

 学生証を通してゲートをくぐり、三階まであがり、いつもの席にいく。腕時計を見ると、時刻は十四時を少し過ぎたところだった。いつもの通りオーバーサイズの服を着た鈴先輩が、いつもの通り一人で座っていて、いつもの通り本を読んでいた。飲み会からこっち、ほとんど毎日のように足を運んでいるが、先輩はいつでも変わらずいつもの通りそこにいる。まるで図書館に住んでいるみたいだった。ふと、この人は授業をどうしているのだろう、とどうでもいいことが気にかかった。

「鈴先輩」

 声をかけると先輩は待ちわびていたようにぱっと顔を上げた。いや、そう見えるのは恣意的な解釈かもしれない。人は見たいように物事を見るものだから。

 鈴先輩は、僕の恣意的な視点からすれば、心底嬉しそうに手を振った。

「こんにちは、千蔭くん。今日こそ宿題に答えてくれる?」

「……まだ、待ってください。もう少しだけ」

「うん。分かった。ゆっくりでいいよ」

 これもまたいつも通りの会話だった。先輩は急かすふうでもなく宿題の答えを聞き、僕はそのたびに返答に窮する。あれから一週間経っているが、それでも先輩はやっぱり急かさない。

 でも、僕は知っている。先輩が答えを聞くとき、密かに頬を強ばらせているのを。待ってくれと言われるたび、安心と落胆をない交ぜにした表情で肩を落としているのを。

 恋愛は先輩の言うとおり、人の頭をおかしくするらしい。先輩のその表情を見るたび――僕に、批判される可能性を恐れているのだと知るたび、僕は心の奥がじんわり温かくなるのを感じた。まるで鈴先輩と両思いであるかのような錯覚! 先輩を落胆させたくないから答えを保留していたはずなのに、いつの間にか、先輩の落胆する表情を見たいがために保留するようになっていた。

 そうして得た後ろぐらい喜びの後には、いつも自己嫌悪がつきまとう。

「千蔭くん、今日は早いね。なにかあったの」

 先輩は僕の支離滅裂な心の内など知らず、そう聞いてきた。

 僕は背後霊みたいな自己嫌悪を振り払い、ここぞとばかりに、左手首に巻き付けた姉の形見を見せびらかして言った。

「実は今日、腕時計が盗られたんですよ」

 一瞬の沈黙。

 鈴先輩は笑顔と困惑と半々の表情で、

「……禅問答?」

「……冗談です。盗られたのは本当ですけど」

 鈴先輩は合点がいったように、ああ、と頷いてから、申し訳程度に笑った。

「この大学、物騒だね。でも、千蔭くんの手元にあるってことは、犯人はもう捕まったんでしょ? 良かったね、ちゃんと警察にいったんだ」

「警察には行きました。でも犯人は分かっていません」

「……やっぱり禅問答かな。あ、それか思考実験だった?」

「今のはわざとです」

「そのジョークは嫌いじゃないよ」

 先輩はふやふやと笑った。

「でも、それってどういうこと? 犯人は捕まっていないのに、盗られた腕時計が戻ってきて、でも警察には行ったんでしょ? 矛盾しているというか……状況が上手く飲み込めないんだけど……」

 先輩の柔い目に促され、僕は曽根山先輩と会ったときのことを話す。

「実は、おかしなことがありまして」

 ほんの一時間前の話だ。


     *


 曽根山先輩はしばらく沈黙していた。明確な意志があったわけではなく、ただ、緊張のために声を発せずにいるようだった。瞠った目を一点に置き、唇を震えさせ、声を発しようという努力は見えたが、そのたびに喉の奥を鳴らして、息を詰まらせている。僕らの間に横たわった気まずい沈黙に、先輩はますます体を強ばらせていった。

「大丈夫ですか……?」

 そう声をかけるが、曽根山先輩は僕の方を一瞥もせず、小さく頷くだけだった。

「……一週間ぶりですね。あれからどうですか。加藤先生はまだお忙しそうですか」

 曽根山先輩はやはり何も言わず頷く。

「そういえば前に、加藤先生に話を聞けるよう、曽根山先輩からお願いしてくださると言っていましたよね。今さらで申し訳ないんですが、その件、お願いできませんか。加藤先生がなかなか捕まらなくて」

 今度は何かを喋りながら頷いていたが、掠れた息が吐き出されただけで、声にはなっていなかった。恐らく、「先生は忙しいから」に類することを言ったのだろうと推察した。

「ありがとうございます、本当に助かります。〈月刊明鏡〉について聞ける人ってもう本当に少なくて。話題になりすぎたせいで詳しい人を見つけるのが大変なんですよね」

 曽根山先輩は愛想笑いに失敗した顔で、もじもじと落ち着かなそうに、座る位置を何度も変えては、視線は僕を避け続けている。

 ……埒が明かない。雑談を切り上げて本題に入ることにした。

「先輩も、腕時計を盗られたそうですね」

 頷く。まだ春先だと言うのに、先輩の額には汗が滲んでいた。

「どんなものだったか、教えてもらえませんか。それから、犯人に心当たりとか、どこで何時頃に盗られたかとか……」

「……」

「先輩?」

「あ、ああ。どんなもの……えーっと、バンドまで銀色のメタリックで、場所は、ちょうど学生ホールここだった、それで、あと……いつ、か。……時間までは正確じゃないけど、二時間目の途中だったかな、空きコマだったんだ。鞄を置いたまま、席を立って、あ、時計は偶然鞄にしまってたんだけど、それで戻ってきたらなくなってて、すぐ学生課に行った。十一時半とかだった気がする。あとは……犯人に、心当たりはない、よ。ない……んだけど、そのーあのー……」

「言いたいことがあるならはっきりしてください」

 しどろもどろの返答にいらいらして、思わず強い口調になってしまった。あちこちに飛ばされるくせ、唯一僕だけは捉えなかった視線が、ようやく向けられる。その目には明らかな恐怖が浮かんでいた。なぜ? そう聞く前に、

「ごめんなさい!」

 曽根山先輩が凄い勢いで頭を下げた。

「え?」

「その……実はこれが……」

 そう言っておずおずと差し出してきたのは、女性用にバンドが細くなっているビジネスモデルの腕時計だった。僕はその腕時計のどこが汚れていてどこに傷がついているか、見なくても諳んじることができる。

 間違いなく姉の形見――僕のものだった。

「なんで先輩が……」

 冷静になるよう自分に言い聞かせながら聞く。それでも喉が力んで、声は震えてしまった。頭の奥が熱っぽくなっている。自分の荒い呼吸が耳につく。曽根山先輩は僕の視線から逃れるように、また眼球をぐるぐる動かしながら、

「ぼ、ぼく、僕が盗ったわけじゃないんだ。ほ、本当に、気づいたらリュックの中に入っていて……ごめんなさい、僕も何が何だか分からない……、嘘に聞こえるかもしれないけど、本当なんだよ、本当に盗ってないんだ……」

 最後にはうつむき加減で、「ごめんなさい」とまた小さく謝った。身を守るように肩を縮こめている姿は、羽を失った鳥のように弱々しく、哀れに見えた。

 無事に戻ってきた腕時計をつけながら、大きく息を吐き出す。冷静になれ。自分に言い聞かせて、表情筋を緩める。笑っていても怒っているように見られる表情筋を。

「席を立っている時間ってどのくらいだったんですか」

 曽根山先輩はおどおどと必死に言葉を継ぐ。

「三十分くらい……だったかな。トイレに行って、その後、コンビニで昼食を買って……どっちも並んでいたから。こんなことならリュックは持って行けば良かったよ」

「なんで腕時計を外していたんですか。しかも鞄に入れておくなんて」

「普段からあんまり時計はつけてなくて……親に買ってもらったものだから、持ち歩いてはいるけど、手首に何かついてるのってあんまり好きじゃないんだ。授業中は使ってるけど、その他は基本リュックの中に入れてる」

「時計を失くす前、授業はあったんですか」

「うん、一限に」

「そのときに教室に忘れてきたってことはありませんか」

「絶対にしまった。いつもそうしてるんだ。授業が終わったら鞄にしまう。忘れるはずがない」

「そうですか……ちなみに一限の授業はなんでしたか?」

「『経済英語』だよ。二年の授業だけど、去年取りそびれちゃって」

 聞いたことのある科目だ。記憶を探って、飲み会のとき耳にしたのだと思い出す。確か隅野と姫野が隣同士だという科目……隅野が隣に坐る和服美人に鼻の下を伸ばし、近くで見ていた小端が不機嫌になり、猪川がそれを窘めるという情景が浮かんだ。あってはいないだろうが、間違ってもいないだろうと思った。

 僕が黙り込んだのをどう解釈したのか、曽根山先輩は懇願するように言った。

「ねえ、本当に盗ってないんだよ。説得力ないかもしれないけど、きっと誰かが勝手に僕の鞄に入れたんだ。目的は分からないけど、でも、僕は本当に盗ってない」

 僕は慌てる先輩を見ながら考える。この人が盗った証拠はない。だが、それと同じく盗っていない証拠もない。信じるべきだろうか、それとも……

「大体、僕だって時計を盗られた被害者なんだ。もし僕が犯人だったら、わざわざ教務課に行くはずがない。そうでしょ?」

 曽根山先輩の言うことにも一理あった。犯人が自ら目立ちに行くはずがない。本当に時計を盗まれていたとしても、きっと誰にも相談せず一人で解決しようとするだろう。

 だがその裏をかいて、教務課に行ったとも考えられる。この場合、時計は本当に盗まれていても、盗まれていなくてもいい。とにかく自分が被害者になれば、嫌疑から遠ざかれるだろうと、先輩が悪知恵を働かせた可能性だ。

 だが――

「本当に盗ってないんだ。証拠なんてないけど、盗んだりしないって。本当だよ。誓って言える。信じてよ……」

 この人が窃盗などするだろうか。こんな気弱で、年下の僕と向かい合っているだけで泣きそうになっているこの先輩が? 何より僕の腕時計を盗む目的が分からない。それを返す理由も。ここまできて罪を認めない意味も。

 ふと、かの有名な『八百屋お七』のように、曽根山先輩が僕に会いたいがために腕時計を盗ったのではないかなんて、馬鹿げた想像をした。しかし、そうだとしても腕時計を盗る必要はないとすぐ思い至った。この人は僕が〈月刊明鏡〉について調べていると知っているのだ。

 そんな僕と会いたいのなら、〈月刊明鏡〉を使えばいい。嘘でも本当でも、そのための方便はいくらでもあるだろう。それに同じ大学、同じキャンパスに通っているのだ。一週間のうち数回程度すれ違うこともあるだろう。そのときに声をかければ済む話だ。わざわざ窃盗犯になるリスクを負う必要はない。

 考えれば考えるほど分からなくなり、僕はこの件を保留することに決めた。

「分かりました。ひとまずは先輩を信じます。ただその代わり、一緒に警察へ相談に行きませんか。強制はしませんが……」

 曽根山先輩はあからさまに安堵し、

「うん、それで信じてもらえるのなら、警察でもどこでも行くよ。……それに腕時計を失くしたって知ったら、親も悲しむだろうしね」

 言うが早いか、もう椅子を立っていた。嫌疑から逃れるためか、あるいは本当に腕時計を探したいのか。警察に行くことで僕の歓心を買おうとしているのか、それとも元々警察には行く予定だったのか。この積極性は演技か、本気か。一度疑ってしまうともうダメだった。もし先輩が警察に行くのを渋っていたとしても、きっと僕は同じように疑心暗鬼のぬかるみに嵌まっていただろう。

 思わず溜息がもれる。

 いよいよ犯人の目的も、被害の理由も分からなくなってきた。誰が、なぜ僕の腕時計を盗んで、どうして曽根山先輩のリュックサックに戻したのだろうか?


     *

 

「……というわけで、犯人は捕まっていないけど時計が戻ってきて、警察にも行くことになったわけです」

 鈴先輩は咀嚼するように何度か頷いてから、

「警察はなにか言ってた?」

「特には。指紋の採取くらいはしてもらえましたけど、結局何も解決していません。僕の腕時計も何事もなく戻ってきてますから、警察に言ったところで意味はないですし」

「そっか。千蔭くんは犯人に心当たりはないの?」

「ないこともないんですけど……」

「けど?」

「その……聞いてもあまり気にしないでくださいね。所詮酔っ払いの戯言ですし」

 僕はそう前置きして、飲み会での下卑た会話や、飲み会以降、周囲からの目が変わったこと、〝彼ら〟から鈴先輩との関係に言及されたことなどを話した。当然、鈴先輩が誹られたことも伝えねばならなかったが、当の本人は気にしたふうでもなかった。

「……だから犯人候補は大勢いるんですけど、特定ができなくて……」

「ふうん」

 鈴先輩は少し考えるような間を置いて、

「もう少し詳しく聞いてもいいかな」

 と、いつもの気怠げな目を一転させ、気の強そうな鋭い視線を僕に向けた。

「曽根山先輩とはなぜ知り合ったの?」

「少し調べ物をしていて。ほら〈月刊明鏡〉の件で」

「ああ。まだ調べていたんだね」

「これもちょうど飲み会の日でした。図書館に来る前に、曽根山先輩と話していて。結局、何も情報は得られませんでしたが……」

「そう」

 鈴先輩は雑に束ねられていた髪を解き、きれいに纏め始めた。

「じゃあ次。飲み会で私の話題があがったそうだけど、君の口から周囲の人間に私との付き合いを言ったことはある? 図書館で一つ年上の先輩と本を読んで過ごしているって」

 僕は首を振った。

「別に隠していたわけではないですけど、言う機会もなかったので。誰も知らないと思っていましたが、どこで見られているか分かりませんね」

「そうだね。じゃあ最後」

 きっちりと髪を纏め終えた先輩はまるで別人に見えた。その変貌ぶりに驚いていると、先輩は勝ち気な目を上げ、

「君は私のこと好きなの?」

「な……!」

 思わず席を立つ。だが先輩にふざけた様子は微塵もなく、むしろ誤魔化したり茶化したりすれば失望されるような、そんな張り詰めた雰囲気が感じられた。

「……好きではないと言えば嘘になります」

 迷った末にそう言うと、鈴先輩は少しだけ口元を緩めた。

「ならこの事件はちゃんと解かないとね。私がいつまでも嘘をついているのも悪いし、なにより君の恋愛観に関わる話でもあるから」

「嘘、ですか」

「ちゃんと説明するから、とりあえず座りなよ」

 超能力者のように、全てを見透かすような目をした先輩はいつになく上機嫌で、それが僕の恣意的な視点であるかどうか、もう正常に判断はできなかった。

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