全ての被害には必ず理由がある。

 いじめを受けているのは、身体的な特徴が理由かもしれないし、精神的な特徴が理由かもしれない。ストーカに遭っているのは、肉体的な魅力が理由かもしれないし、心情的な魅力が理由かもしれない。姉が殺されたのは利己的で利他的な恨みが理由だった。

 では僕の腕時計が盗まれた理由は一体何なのだろうか。

「ほんとに見つからねえの?」

 上から気怠げな隅野の声が落ちてくる。スマートフォンをいじって時間を潰すのにも飽きたのだろう。

「家に忘れてきたとかじゃなくて?」

「間違いなく持ってきたし、外して、リュックサックの中に入れた」

「ああ、いつものポーチの中? じゃあやっぱり盗られたんだろ。……なあ、もう行こうぜ。ここでそうしてたってしょうがないだろ」

 他人事のような言い草に腹が立ったが、事実、隅野にとって僕の腕時計は他人事だ。

「先に出てていいよ。もう少し探してみる」

 そう言うと、隅野は聞こえよがしに溜息をついて、ベンチに座った。

「なるべく早くしろよ。腹減った」

 またスマートフォンをいじり始める。僕は聞こえないように溜息を零した。彼が一人になりたがらないのは今に始まったことではない。常に誰かが近くにいないと気が済まないのだ。それが見栄や外聞を気にしてのことだとも知っていた。

 隅野を視界に入れないようにしながら、僕は考える。

 実際、腕時計は盗られたのだろう。いつものようにポーチに入れて、サイドポケットにしまったから、どこかに失くしたなんてことはあり得ない。入れた場所を間違えたという万が一の可能性も考慮して探してみたが、空振りに終わった。これが人為的なものでないなら、腕時計に足でも生えていたということになる。

 だが理由はなんだろう。それこそ腕時計に足でも生えていれば、誰かに盗られるかもしれない。さぞ高く売れるだろう。しかし僕の腕時計はどこにでも売っているビジネスモデルの安物だ。年季も入っていて、最近では時間がずれることがよくあり、気づいたときには針が止まっていたことも少なくない。細身で、正確な時間を示さず、姉の形見であるということ以外には、なんの価値もないただの安時計。それを盗るのにどんな理由が――

「やっぱ俺もう行くわ。明日香が食堂にいるらしいし」

 隅野はそう言って、更衣室を出て行った。腕に目を落としかけ、失くなっていることを思いだし、更衣室の時計を見た。十二時二十分を表示していた。

 ……正直、怪しい人間はいる。だが多すぎて、特定できないのだ。理由も犯人も。

 飲み会が終わってから今日までの一週間、周囲から奇異な目で見られることが増えた。初めはただの自意識過剰だと思っていた。だが彼ら彼女らの視線は、明らかに僕を蔑み、嘲り、卑しむものだった。どこに行っても彼らのまなざしにさらされ、後ろ指をさされ、笑いものにされた。

 これは構内ですれ違うだけの関係しか結ばない無関係な人間に限った話ではなく、友人の隅野や小端や猪川にも、少なからず見られた変化だった。彼らもまた僕と話すとき、どこか阿るような気遣わしげな雰囲気を纏わせるようになっていた。気にしなければ分からない変化だったが、一度気になるととめどなかった。

 それとなく聞いてみたことがある。なぜ気を遣ってくるのか? 隅野はスマートフォンをことさら触りながら「別に、なんもねえよ。考えすぎ」、小端は大袈裟なほど申しわけなさそうな顔を作って「飲み会ははしゃぎすぎてごめんね千蔭。ほんと反省してる」、猪川は憂いを払いきれていない笑顔で「別に千蔭が気にすることじゃない」、と三者三様に、その話題を避けたがった。

 全学部共通の授業で同じ班になった数人に聞いたこともあった。隅野たちと同じ経済学部の人間だった。彼らもまた僕に対し素っ気なく、それなのに、彼らは体中にくっつけたアクセサリーと同じくらいギラギラと、好奇心をむきだしにしていた。

 彼らは僕を奇異の視線にさらす理由をこう答えた。

「穂崎くん鈴先輩と付き合ってるってマジ? 結構噂になってるんだよ。あの鈴先輩と付き合うなんて!」

 そこからは飲み会の延長のような会話が続いた。鈴先輩を徹底的にこき下ろし、その言葉に自分たちで笑い、僕をフォローし、僕にもっと〝合う〟らしい人間を話題に挙げ、また自分たちで笑う。途中から愛想笑いをするのも嫌になり、最後には何も言わず教室を出ていた。その授業は落とすことに決めた。

 そして、今。腕時計は盗られている。

 手っ取り早い解決を求めるなら、鈴先輩と付き合っていることを、面白がったり、蔑んだり、妬んだりしている彼らのうちの誰かの仕業とするべきだろう。飲み会の延長の会話の延長に、時計を盗られた今がある。

 しかし、どんな理由で僕の時計を盗ったのかは分からないし、なにより、〝彼ら〟は多すぎる。百人単位の中から犯人を捜すなんて、超能力でもないと無理だろう。

 だからここは法的な手段に頼るべきだ。

 僕は更衣室を出て、学生課に向かう。

 その道すがら、猪川と鉢合わせた。

「さっき隅野から聞いたけど、腕時計盗られたらしいな」

「ああ」

「……何か手伝えることはある?」

「別にない」

「そっか……」

「ああ」

「……」

「……じゃあ僕、学生課に行くから」

「時計、大事なものなんだろ?」

「……別に」

「嘘つけよ。手ならいくらでも貸すから、何かできることがあるなら頼れよ。一人で抱え込むな。友だちだろ」

「ああ」

 猪川は苦笑して、「じゃあまた」と去って行った。その背中が小さくなってから、礼を忘れたことに気がついて、思ったより余裕がなくなっている自分に気がついた。「……ありがとう」今さら言っても、口の中で潰れた言葉は猪川の背には届かない。「……ごめん」言い訳がましい言葉もひとりでに潰れた。


「怪しい人は映ってなかったけど……窃盗かなあ」

 防犯カメラの確認をし終えた学生課職員は、僕よりも困った表情をしていた。

「もう一回だけ確認させてね。今日の二限に体育があって、更衣室を使用したんだよね。それで穂崎くんはロッカーにリュックサックを入れて、時計も一緒に入れた。ロッカーの鍵は閉めてたんだよね」

「もちろん。いつも同じロッカーを使ってますし、習慣になっていることですから。忘れたなんてあり得ないです」

「で、授業が終わった後、更衣室に戻って時計が失くなっていることに気がついた。いつものポーチの中から消えている。ロッカーの鍵はどうなっていた?」

「開きっぱなしでした。だから正直、戻ってきたときに嫌な予感はしてたんですよ」

「そっか……」

 職員は口元を隠すように手を当てて、低くうなった。

「ちなみに穂崎くんが鍵を落としたとかではないんだよね」

「授業が終わるまでずっとポケットに入っていたのであり得ないです」

「じゃあ合鍵を勝手に作られてたとか……」

 僕はこの職員が気にしているであろうことを先回りして答えた。

「正直、あのロッカーは鍵がなくても簡単に開けられると思います。うちのやつ安物ですし、針金で少しいじれば……」

 職員は一瞬だけ痛い所を突かれたような顔になって、すぐさま「いや、でも……」と言葉を探し出した。窃盗事件を大学設備の手抜かりのせいにされたくないのだろう。

 僕は溜息を押し殺しながら、

「別に、これを大学のせいだと言いたくてここに来たわけじゃないです。あんなロッカーを信用して使っている僕のせいでもありましたし。ただ、もし僕がこの件を警察に通報したとして、大学は協力してくれるのかどうかを聞きたくて……」

 カウンターの向こうにいる職員までもが、『警察』という単語に敏感に反応した。目の前の職員は、できるだけ事を荒立てないでくれと表情で言いながら、それを言葉にできず苦しんでいるように見えた。

 カウンターの向こうから恐らく一番の上職であろう男性が出てきて、窘めるような声で言った。

「……大学としては警察を呼ぶことは止めないし、もし呼んだなら協力も惜しまないけど、呼ぶか呼ばないかは自己責任の範疇になっちゃうなあ」

「そうですか」

 何がどう『自己責任』に問われるのかはよく分からなかったが、彼らが本心から警察を呼ばないでほしいと思っていることは分かった。

「じゃあ自己責任で呼びますので、協力をお願いします」

 上職員は何か言いたげだったが、僕がスマートフォンを取りだしたのを見るとしぶしぶ頷いた。だが『11』まで押したところで、

「窃盗、今日で二件目ですよ。同一犯ですかね」

 職員のそんな言葉が電話をやめさせた。

「あの」

 スマートフォンをしまって声をかけると、職員は明らかにほっとした顔で、

「なに? 警察はやっぱりいいの?」

「場合によります。僕以外にも今日、窃盗被害に遭った人がいるんですか」

「いるけど……それがどうかした?」

「その人にも話を聞きたいので、誰か教えてもらえないですか」

「いや、でも個人情報だし……」

「もしかしたら警察を呼ばなくて良くなるかもしれません」

「……ちょっと相談させてくれる?」

 職員は奥に引っ込んでしまった上職員のもとへ言って、二、三言やりとりして戻ってきた。

「今からその窃盗に遭った子に連絡を取ってみて、向こうが教えても良いって言ったら教えるよ。どうかな」

「構いません」

 職員は席に戻って、どことなく緊張した面持ちで、受話器を手に取った。短いやりとりがおこなわれ、受話器が置かれる。職員は少しだけ頬を和らげて、もう一人の被害者を教えてくれた。

「よかった。教えてもいいって。この子も腕時計を盗られたんだって。曽根山瑛太えいたくんっていう三年生だよ。今、学生ホールにいるらしい」

 僕は職員に礼を言って、学生ホールへ足を向けた。

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