間延びしたお経、リズムを取るように鳴らされる木魚、合いの手のように差し挟まれる鼻をすする音、葬儀社の司会が焼香を促す声、涙にえずく声、また焼香を促す声、誰かの足音、涙をかみ殺す声……

 まとわりつくようなにおいに、目を開ける。

 目の前の香炉の、その中の香炭の、その上の抹香の焼けるにおいだった。ふと顔を上げると、遺影に使われた姉の笑顔と、それを執拗に飾り立てる白色の花々が僕の目にかみついてきた。その下にはあらゆる穢れをはねのけるような白木の棺が横たわっている。まるで姉が、自分の死体を見下ろして笑っているみたいだと思った。

 ――ご焼香をお願いします

 水の中で聞くように、その声はどんよりとしていた。僕に向けられたものだと気づくのが遅れる。僕はタバコ葉みたいな抹香をつまんで、適当に二、三回香炉にくべる。夢だから、投げ捨てるように焼香しても、誰も僕を責めたりしない。抹香は床に散らばることなく香炉に全て収まり、香炭は工業地域に突き刺さる排煙塔のごとく煙を吐いている。

 立ちこめる白煙が、黒枠に押し込められた笑顔をかすませていく。いずれ姉の体を焼くのは、火葬炉ではなく、この抹香にまみれた香炭なのではないかと思った。今すぐこの香炉を蹴倒してしまいたい衝動に駆られ、実際にそのように体を動かしたけれど、香炉台の前の僕は、僕の意識など関係ないふうに、弔意でいっぱいの蒼白い顔を喪服の上に浮かばせたまま静止している。意識と視界はまったく切り離されていた。哀愁をさらす顔と、喪服に押し込められた身体が、きつく締められた黒ネクタイで切り離されているように。

 瞬きをすると、香炉は煙のように消え、元からそこにあったかのような顔で、白木の棺が現れた。周囲にも献花を手にした親族が並び、棺に近寄ったり離れたりしながら、姉に声をかけ、触れた。それぞれの顔は判然とせず、どれが誰かは分からなかったが、皆一様に悲嘆に暮れているのは分かった。

 両親と祖父母と従兄弟と、名前も知らない遠い親戚が、僕とまったく同じ様子で姉を悼んでいるのがなんだかおかしかった。喪服、黒ネクタイ、蒼白な顔、赤い目、鼻をすすったり、涙でえずいたり。それ以上でも以下でもない、表現としての悲しみ。これが夢だから、僕のつたない想像力において彼らがそのように悲しむのか、それとも現実にこうだったのかは覚えていない。ただ、悲しみには限界があるのだろうと思った。

 目を落とすと、姉の姿があった。清楚な花に抱擁され、死に装束で棺に縫い付けられている姉の体は、あらかじめそうなるのが決まっていたように、収まりがよく見えた。

 ――千蔭も、手向けてやりなさい

 母か、父か、祖父母か、従兄弟か、それとも別の誰かかもしれない誰かがそう言った。

 菊の花を受け取りながら、この花もまた姉を燃やすための一過程なのだと思った。火を起こすまえに薪を割るように、薪を割るまえに斧を研ぐように、姉は、姉のための焼香に、花に、そして僕たちの祈りによって燃やされる。

 手にした菊を捨ててしまいたかった。姉を抱擁する花々をどかし、死に装束を引きちぎり、僕が代わりに姉を抱きしめて、この場を去ってしまいたかった。祭壇も棺も献花も香炉も、何もかもが姉の代わりに燃えてしまえばいいと思った。

 だがやはり、僕の身体は、僕の意識に反して、姉を燃やすのに手を貸した。姉の首筋あたりに花を添えたところで、棺の蓋は閉まっていた。

 そこからは断片的だった。僕が瞬きをするたび、棺が現れたり消えたり、人が増えたり減ったりいなくなったりした。

 そしてついに姉は火葬炉へ入れられた。ボタンが押され、低い耳鳴りのような音が聞こえる。目の前の火葬炉の、棺の、花の中の姉が焼かれるにおいを想像させた。

 ――一時間ほどで焼き上がりますので、待合室にてお待ちください

 職員の声がその音に重なる。実際には「焼き上がる」なんて言葉は使わないだろうから、これは夢のせいだろう。

 待合室に入ったと同時に、目の前には人骨があった。それを箸でつつき、骨壺に収めていく。誰もここが待合室であることを気にしていない。かくいう僕も、それを自然なこととして受け入れ、慎重に姉の骨を拾っていく。大きい骨、小さい骨。固い骨、もろい骨。誰かが遺影を抱え、誰かが骨壺を抱え、誰かが舎利を抱え、僕が位牌を抱えた。車に乗り込んだと思ったら降りて、家に着いていた。祭壇の飾り付けを終え、蝋燭に火をつけ、線香を立て、焼香を焚いたところで、チャイムが鳴り、喪服の男が入り込んできて、頭を下げた。両親に罵られて、頭を下げ、また罵られ、頭を下げ、また罵られ……

 ――あんたらのせいで、娘は……

 ――申しわけありませんでした。全て私の不徳の致すところでございます

 ――返してよ、あの子を返しなさいよ!

 ――申しわけありませんでした。全て私の不徳の致すところでございます

 僕はその間ずっと、姉の遺影を見つめていた。それなのに、訪問者の顔はよく覚えていた。くたびれた顔をした、人の良さそうな中年男性だった。姉とどんな関わりがあったのかは知らない。だが、その男性がなぜ謝っているかは知っていた。

 姉は殺されたからだ。

 犯人は捕まった。判決も出た。だが司法はそれ以上、何もしてくれない。それでは両親の心は癒やされない。だから、責任のありそうな人間が謝罪するのだ。神の逆鱗に触れたら生贄を捧げるように、被害者遺族の怒りには責任者が生贄として捧げられる。責任がなくとも、関係のありそうな人間が。関係がなくとも、何かを知っていそうな人間が。何も知らなくとも、ちょうどいい人間が。

 両親のわめき声と、泣き声と、男性の謝る声を聞きながら、姉はただ笑っていた。自分の死体を見下ろすのと同じように、ただ。


 目を覚ます。まぶたがどろどろに溶け出したような眠気と、泥の中から這い出るようなだるさを引き摺りながら、体を起こした。頭が覚醒していくにつれて夢はだんだんと記憶から薄れていく。感情もそれにつれられて散っていった。

 開いたままのカーテンから朝日が差し込んでいる。時刻は七時五十分。鳥の鳴き声が聞こえる。隣の部屋から子どもの泣き声が聞こえる。アパートの階段に靴音が響いている。

 テレビをつけると、星座占いをやっていた。今日の運勢は絶好調だった。窓を開けると、爽やかな風が僕の服の中に忍び入って腹を撫でた。向かいのアパートから、ゴミ袋を持ったサラリーマンが出てくるのが見えた。その横を制限速度を超過した軽自動車が走って行き、それが引き連れていった風になびく髪を押さえる女性がいて、彼女と挨拶を交わすジョギング中の老夫婦がいて、その近くで散歩中の犬が軽やかに吠えた。子どもの泣き声はいつの間にかおさまり、きゃっきゃっと楽しげな声に変わっていた。鳥の鳴き声はまだ聞こえている。

 姉のいない世界でも朝は来るのだ。

「おかあさん! 遅れるよー、はやくー」

 隣の部屋のドアが開く音。子どもの声は弾んでいる。今日は土曜日だ。きっとどこかに出かけるのだろう。

 もう一度窓の外を見る。穏やかな太陽が僕に笑いかけ、爽やかな風が舞い込んでくる。春のにおいが、部屋に溜まった。僕は窓を閉め、カーテンを閉め、布団を頭から被った。まぶたも閉めて、耳を塞ぐ。

 今日はずっとこのままでいようと思った。明日もこうしていようと思った。

 もう夢の内容も、姉の笑顔も思い出せなくなっていた。それでいいとも思っていた。夢を忘れては姉の顔を忘れ、夢の中でないと姉の死すら悲しめない、そんな自分が一番悲しいから。そして姉の死の責任を誰からも責められず罰せられず、安心すら覚えている、そんな自分が一番卑しいから。

 だから全部忘れて眠った。深く、深く。

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