居酒屋の喧噪とはなぜこうも神経を逆撫でするのだろう。

 ガチャガチャ鳴る皿の音、キンキン鳴らされるグラスの音、パンパンと手を叩く音、バンバンと机を叩く音、ギャーギャーキャーキャー叫ぶ声。ゲラゲラケラケラ笑う声。

 ザワザワガヤガヤとした音の集合にぐちゃぐちゃにかき混ぜられた空気は、僕の心もぐちゃぐちゃにして、ささくれだった心を刺激する。

 そして目の前のふたり、隅野すみの小端おばた

 彼らはさっきまでのことを全て忘れたように、また馬鹿みたいに酒を呷っては馬鹿みたいに騒いでいた。

「えー? そりゃあ彼氏がわりいだろ、だってさ、自分の女がせっかく会いに来てくれたのに、しかも他の男と寝てまでだぜ、そんなのさあ、すげえ女じゃんいい女じゃん、そんな女手放すなんてだせえよ、そいつ男じゃねえよ、なあ?」

「そんなこと言ってしゅんはさあ、あたしがもし同じことしたらどうするのお、どうせ捨てるんでしょお」

「そんなわけねえよ、お前、明日香あすか、おれはあれだよ、あれ、あの……そうだ! まくあい! まくあいしゅぎだから、そんなお前も好きに決まってんだろ」

「まくあいって、幕間って! あはははは! 舞台公演じゃん! 第二幕始まっちゃうじゃん! 昼ドラのドロドロ劇じゃん! あっはははははは!」

「あー? まぐあい? まぐあいしゅぎ? なにいってんだバカおまえ、てぃーぴーおーわきまえろよな、てぃーぴーおー! まくあいしゅぎのことまぐあいしゅぎなんていって、みなさんに申し訳ないだろ! そんなこという女に育てた覚えはありません!」

「あっはははは! いってないいってない、まぐあいってそんな……あははは! 瞬ってば、もう今からなにかんがえてんの、もうえっちい、もう」

「ぎゃははははは! その状況だったらえっちいのは明日香のほうだろお? だいたい、おれは浮気にはかんよーなほうだぜ。フランスとかならさ、あれ、アメリカだっけ? アフリカ? まあなんでもいいけど、ヒップタサイセイなんだから、誰となにを何回やってもいいんだよ、今はコクサイシャカイなんだからさあ」

「あっはははは、ヒップ! ヒップ多妻制! なにそれ、あははははははは! そりゃあ多妻なんだから、ヒップはいっぱいあるよ! 多妻の多彩なヒップだよ! おしりいっぱい! あははははは!」

「ぎゃはははははは! 明日香、おまえなに言ってんだよ! そんなこという女に育てた覚えはありませんパートツーだ、このやろー。ぎゃはははは!」

「あっはははははは!」

「ぎゃはははははは!」

 下品だ、あまりにも。僕はもう何十回目かも分からない溜息をつく。

 少し前までは、パンパンに膨らんだ風船を気にかけるような、どこか白々しい感じの盛り上がり方だったが、いつの間にか彼らの目に風船は見えなくなったようだ。

「千蔭、本当に悪いな」

 僕の隣に坐る猪川いかわが眉を下げて、申し訳なさそうな顔を作った。

「最近千蔭と飲みに来られなかったから、二人とも浮かれてるんだよ。千蔭いつも用事があるって断るから。……それと、さっきの先輩への言葉も、ちょっと悪ノリが過ぎただけだ。大目に見てやってよ」

「別に怒ってない。予定も、みんなとは学部が違うから、合わないだけだし」

「そっか」

 猪川の苦笑いを横目に、僕はコーラを飲んで、また溜息をつく。本当は『川を渡る女』の話をするつもりはなかった。したくもなかった。しかし隅野があんな話をし始めたせいで、先輩との思い出は、酔っ払いの下品な放言に汚される羽目になった。

 居酒屋についてすぐのことだ。先日、ついに成人を迎えた隅野と小端は、「もうこそこそ飲む必要ないのほんとに楽でいいわあ」「でも少し寂しいね、あたしもう少しこそこそ飲んでたかったなあ。いやあ、まだ若い二人がうらやましい」「お二人さん俺らだけ先に成人しちゃって悪いね。あ、二人は今日酒禁止な。未成年が目の前で飲もうとしてたら止めるのも成人の務めなもんで。いやあ悪いね、本当は飲ませてやりたいんだけど、つらい、成人ってつらいわー」「今日はここの酒全部飲み尽くそう。肝臓が欲してるもん」そう馬鹿みたいな宣言をして、馬鹿みたいに度数の高い酒を馬鹿みたいに飲んで、馬鹿みたいにすぐ酔い潰れた。

「うええええ、ぎもぢわるい」

「せかいが、ぐわぐわする、せかいが流れていく、せかいは水だったんだ」

「水? みずください。う、もう無理、もう出るなんか出る」

 みたいではなく、ただの馬鹿だった。

 店員に水をもらって、顔を赤くしたり青くしたりする二人に渡してやった。

「ほんとにむり。ギブ、もう吐く!」

 必死な形相で隅野はトイレへ駆けていった。

 十分ほど経つと、すっきりした赤ら顔の隅野が駆け足で戻ってきて、

「そういや今日、千蔭が鈴先輩といたところ見たんだけど!」

 本当に唐突に、酔いで潤んだ瞳を子どもみたいに輝かせながら、そう言った。その声に潰れていた小端も起き上がって、ふっと鼻を鳴らした。

「なにそれ異色じゃん」

「な、しかも二人っきりだぜ。何話してたかは知らないけど、いい雰囲気だった」

 隅野は何がおかしいのかゲラゲラ笑った。小端もケラケラ笑いながら、

「付き合ってんの? そんなのもうスキャンダルじゃん。千蔭けっこうモテるんだから、相手はもっと考えなよー? 鈴先輩なんてもったいないよ」

 冗談として発せられたはずのその一言が、僕の心に爪を立てる。こめかみのあたりがギチギチと締め上げられるようだった。

「なにそれ、どういう意味?」

 酔っ払いの目にも分かりやすいよう、顔いっぱいに不快感を表したつもりだった。しかし乏しい表情のせいか、酒のせいか、二人はいっこうに気づかない。隣の猪川だけが、僕の怒気を感じとって、取り繕おうとしていた。

「なあ、隅野。別の話はないの。ほら、千蔭は知らないかもしれないけど、うちの学部に有名な人がいてさ、姫野ひめのって言うんだけど、その人の話でさ……」

「姫野!」

 小端がニヤついた顔を向けてきた。

「鈴先輩にしとくくらいなら姫野にしときなよ。ねえ、千蔭知ってる? 鈴先輩、高校のときいじめられてたらしいよ。だからオススメはしないなあ。まあ根暗そうだし、いじめられるのも分かるわ」

「うわあ。明日香、毒舌」

「本当のこと言ってるだけだよ」

「違いない! いっつも一人だしな!」

 ガチャガチャ、ゲラゲラ、ケラケラ。ギチギチ。

「姫野はいい子だよ、本当に。ノリもいいしね。スポーツが好きで、読書も好きで」

「好きな本なんだっけ、恋愛小説とかだっけか」

「そうそう。好きなスポーツはソフトテニス」

「動物が好きで」

「中でも犬が好きって言ってたよ。あと左きき」

「絵も上手いよな、高校のときなんとかって賞獲ってたはず」

「好きな色は水色だって」

「嫌いなものは虫だっけ。蝶も無理って、前授業で言ってたわ」

「ああ、『経済英語』? 瞬は席となりだったもんね」

「とにかく! ちょっと恋愛脳だけど、そこも愛嬌! 鈴先輩にするくらいなら、あっちにしとけよ」

「その言い方は姫野に失礼!」

「ちがいない!」

 バンバン、ゲラゲラ。パンパン、ケラケラ。ギチギチギチギチ。

「今度、姫野のこと紹介してやるよ。姫野もたぶん喜ぶだろ」

「それいいね。瞬から千蔭のこと伝えておいてあげなよ、いい感じに」

「おう、任せとけ。付き合いは悪いから仲良くするのは難しいかもってちゃんと伝えといてやるよ」

「それは千蔭に失礼!」

 バンバン、ケラケラ。ギチギチギチギチギチギチギチギチ。

「じゃあ千蔭の新しい出会いに乾杯しよっか! ほらほらグラス持って」

 ガチャガチャ。

「姫野と千蔭に乾杯!」

「かんぱーい!」

 キンキン、キンキン、キンキン、ゲラゲラケラケラ、ガチャガチャガチャガチャ。ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギ――

 バン!

 耐えきれず、机を叩いた。一瞬の静寂。周囲はまた喧噪に包まれるが、僕たちは黙ったままだった。隅野と小端は滑稽なほど同じ顔で僕を見た。心底びっくりしたように大きく見開かれた目、笑顔の余韻を残しながら引きつった唇。猪川は眉をひそめて、あきれたようにグラスに口をつけていた。

「……え、なに。マジだったの?」

 隅野が明るさをことさら強調したように言った。僕は何も答えなかった。小端はそれを見てようやく察し、ふてくされたような顔で、「ごめん」とだけ言って席を立った。

 それからすっかり座はしらけてしまい、猪川が何とか取り持ってくれようとしたが、しばらくは破裂寸前まで膨らんだ風船を気にかけ続けるような白々しさが残った。どんな話をしていても、それぞれの笑顔がぎこちなく、声音もどこか素っ気ない。

「ちょっと前にさ、女の子とご飯行ったんだよ。そしたらこいつ、めちゃくちゃ怒ってさ。二人きりは浮気だって。どう思う?」

「それは隅野が悪い。彼女いるくせに女心分かってなさ過ぎじゃない?」

「ええ、猪川までそんなこと言うなよ」

「だってさ。やっぱ浮気じゃん。あたしとご飯行けばいいのに、なんで他の女と行くかな」

「でもお前だってよく女友達と二人で飯行くじゃねえか。俺と行けばいいのによ」

「別にそれはいいじゃん。友達だし」

「俺だって友達だよ」

「でも異性と二人きりは浮気だよ」

「うわ、差別だ差別。なあ、千蔭。良くねえよな」

「ああ、まあ隅野が悪いんだろ」

「えー、千蔭まで裏切るなよ」

「あはは、味方いないでやんの」

「なんだと」

「あははは……」

「ははは……」

「……」

「……」

「……」

「あ、そういえば法学部の青山から聞いたんだけど、心理学部の山中が佐藤と浮気して振られたって」

「それ知ってる。でも最初に言い出したの確か教育学部の早田じゃなかった?」

「あれそうだっけ? 青山は速水から聞いたって言ってたよ。体育学部の」

「え、佐藤さんってうちの学部のでしょ? そもそも佐藤さんって恋人いるんだっけ。山中はいないでしょ」

「そうなの?」

「じゃあ俺らが聞いた話って」

「早田の作り話でしょ。人づてに聞いた話なんて当てにならないね。ねえ、千蔭」

「ああ、猪川の言うとおりかもね」

「信じなくて良かったー」

「嘘だ、明日香は信じてただろ」

「ははは、バレた?」

「あははは……」

「ははは……」

「……」

「……」

「……」

 沈黙は風船の存在感を誇張する。こういうときに限って、話題も出てこないのだ。僕は居心地が悪くなって、それ以上に猪川への申し訳なさもあって、

「あー、そういえばさ、『川を渡る女』って心理テストがあるんだけど、知ってる?」

 ついにはそう言ってしてしまった。

 僕が話題提供したのを寛恕のサインと思ったのか、三人はあからさまにほっとした顔になり、その空気を保たせるために隅野と小端は酒を追加して、馬鹿騒ぎを始めた。猪川は眉を下げて、僕に笑いかけた。

 膨らんだ風船はまだここにあるはずだ。しかし気にならなければ、目に入らなければ、それは存在していないのと同じだった。


 舞台公演とまぐわいと一夫多妻制と臀部について語っていた二人が潰れたのを機にお開きとなった。完全に潰れた二人をそのままにもしておけず、タクシーを呼んだ。

「二人が心配だから乗っていくよ」

 猪川がそう言って、助手席に乗り込んだ。

「今日は変な空気にしてごめんな」

「いや、こっちこそ。悪かった。もっと早く止めるべきだったね。……あんまり二人のこと嫌わないでやって。悪ノリが過ぎただけなんだよ。こういう場じゃなければいいやつなのは千蔭も知ってるだろ」

「……分かってるよ」

「なら、いい」

 猪川は運転手に行き先を伝えて、

「じゃあまた来週大学で」

 車が発進し、テールランプが遠ざかっていく。完全に見えなくなるのを待ってから、僕も帰路についた。

 家についてから、改めて猪川にお礼のメッセージを送った。

『今日は本当にごめん。ありがとう』

『別に大丈夫。二人がタクシー代は出してくれたし。むしろ得したかも』

 僕はふと思い出し、

『そういえば教科書ってどうなった? まだいる?』

 一年生のときに僕が取っていた講義を、猪川は今年取っていた。教科書必携の授業だったから、もし必要なら貸すという約束をしていたのだ。

 すぐに返信が来る。

『なんか、今年から教科書変わったみたい』

『そうなんだ。どうするの』

『もう用意できたから大丈夫。ありがと』

『ならよかった。今日は本当にありがとう。おやすみ』

『こちらこそ。おやすみ』

 僕は腕時計をケースにしまってから、ベッドに入った。ひどく疲れていた。やわらかい毛布。心地よいぬくみ。明日は土曜日だ。すぐにでも寝たいが、寝たくない。

 こういうときは大抵、嫌な夢を見るから。

 焼香と樟脳のにおいが立ちこめる、姉の葬儀の夢を――

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